2020年01月03日

モーツァルトの生涯と代表作品

mozart.jpg天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と短い生涯ながら、626曲もの楽曲を作曲しました。そんな天才の生涯を駆け足で見て行きます。

1756年(0歳)
1月27日、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領で誕生。父レオポルトはヴァイオリニストで、ザルツブルクの宮廷作曲家としてすでに名を成していました。父は息子が天才であることを見出し、幼少期から音楽教育を施します。3歳でチェンバロを弾き始め、5歳で『アンダンテ ハ長調 K.1a』(YouTube)を作曲したほどの神童ぶりでした。
 ・ザルツブルクでモーツァルトの足跡を巡る


●音楽教育、就職活動を兼ねた欧州旅行
父は息子の神童ぶりを各国の宮廷に披露するために、国外旅行を何度も行いました。

1762年(6歳)
第1回ウィーン旅行。10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏。その際、モーツァルトは宮殿の床で滑って転んでしまいますが、7歳の皇女マリー・アントワネットに手を取って助けてもらいます。お礼に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげるね」と言ったそうです。
 ・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(中編)


1763年 - 1766年(7 - 10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年 - 1769年(11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。
1769年 - 1771年(13 - 15歳) 第1回イタリア旅行。
1771年(15歳) 第2回イタリア旅行。

1772年(16歳)
8月21日、新任のコロレド大司教より、ザルツブルク宮廷のコンツェルト・マイスターに任命される。

1772年 - 1773年(16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。
1773年(17歳) 第3回ウィーン旅行。
1774年 - 1775年(18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。


18世紀の時代にこれだけの旅行をしていたのですから、モーツァルト父子とんでもないです。渡航費が工面できるほどレオポルドの名声があったこと。父が子ヴォルフガングに相当の期待をしていたことがわかります。

モーツァルトは16歳でザルツブルクの宮廷音楽家に就職していますが、できれば首都ウィーンやその他大国の宮廷にキャリアアップするのを目指していました。しかし、どれもいい結果につながりませんでした。
今でこそモーツァルトは人類史上頂点に位置する音楽家ですが、当時は有力音楽家たちが占めていたポストに食い込めませんでした。モーツァルトのような天才でさえも「現実の壁」がいかに険しいかわかる話です

この頃の作品のひとつ、『ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219《トルコ風》』(YouTube)。


●仕事のやりがいと上司に悩む
前々回でも述べましたが、ザルツブルクは聖職者の大司教が塩の利権を独占し、王のように君臨する珍しい領邦でした。コロレド大司教はモーツァルトにとって君主であり、宮廷という職場においては社長のような存在でした。そして、この上司とはことごとく馬が合わなかったことで有名です。

コロレド大司教はミサ典礼における大がかりな音楽を禁止し、ひたすら厳格な宗教音楽を求める上司。かたや自己表現をしたくてたまらない天才肌の部下。合うはずがありません (;^ω^)

1777年(21歳) 9月1日、父子そろってザルツブルク宮廷から解雇され、父レオポルドはショックで寝込みます。
モーツァルトは次の就職口を探すことも含めて長期旅行を計画。今回は父の代わりに母アンナが同行することになりますが、レオポルドにとってこれが妻との最後の別れになってしまいます。

この頃の作品のひとつ、『ミサ曲 第12番 ハ長調 K.262(ミサ・ロンガ)』(YouTube)。


●就職活動失敗とザルツブルク帰郷
母子は西に移動し、ミュンヘン、アウクスブルク、マンハイムへ移動します。当時、マンハイムの宮廷オーケストラは、ヨーロッパ随一のものでした。ここで演奏会に出演して成功をおさめたものの就職活動は成功せず、パリへ向かいます。

マンハイム滞在時の作品のひとつ、『フルート協奏曲第1番ト長調 K.313(285c)』(YouTube)。


1778年(22歳) 3月〜9月までパリ滞在。就職活動は散々な結果で、7月3日には同行した母がパリで病死。失意のドン底に。

パリ滞在時の作品のひとつ、『交響曲第31番 ニ長調「パリ」K.297』(YouTube)。


1779年(23歳) ザルツブルクに帰郷。復職していた父の尽力で、1月25日宮廷オルガニストとして復帰。仕事はありがたいけど、クソ上司・コロレド大司教の下で働くストレスMAXな日々の再開。

この頃の作品のひとつ、『ミサ曲ハ長調 K.317 “戴冠式ミサ”』(YouTube)。


●ブラック企業を退職し、ウイーンでフリー作曲家に転身
1780年(24歳) バイエルン公国から依頼されたオペラ『クレタの王イドメネオK.366』(YouTube)作曲・演奏のためにミュンヘンに滞在。長期出張で久々の息抜き。

1781年(25歳) ウィーン滞在中のコロレド大司教に呼びつけられ、モーツァルトもウィーンへ。そこで二人の対立が激化し、解雇されます。もうザルツブルクには戻らない決意をし、ウイーンでフリー作曲家としてスタートを切ることに。

この頃の作品のひとつ、誰もが知っている『きらきら星変奏曲』ハ長調 K. 265(YouTube)。


●独立、結婚、そして売れっ子へ
1782年(26歳) 独立したてで不安定な状況のときに、舞い込んだ仕事、オペラ『後宮からの誘拐 K.384』(YouTube)を作曲。7月、ウィーンで初演。
8月3日、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

1783年(27歳) ザルツブルクに帰郷。6月、第1子誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
この頃の作品のひとつ、『ピアノソナタ第11番』<第3楽章が有名なトルコ行進曲>(YouTube)。

1784年(28歳) 第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
12月14日、陰謀論でお馴染みのフリーメイソンの慈善ロッジ(ウィーン)に入会。死去するまで熱心な会員で、後に父レオポルドとハイドンも勧誘して入会させてます。フリーメイソンのための作品を10曲も書きました。
そのひとつ、『フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477』(YouTube)

1785年(29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。ハイドンは24歳年上の先輩ですが、二人は技量を認め合い、親友となります。
ハイドン・セットのひとつ、『弦楽四重奏曲第14番 ト長調 K. 387』(YouTube)。

1786年(30歳) 5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492(YouTube)をブルク劇場(ウィーン)で初演。年末にはプラハで公演し大ヒット。


●プラハでの熱狂的な歓迎と父の死
1787年(31歳) 1月11日にプラハに招待され、1ヶ月以上滞在。どこへ行っても大人気でした。1月19日、『交響曲第38番 ニ長調「プラハ」K. 504』(YouTube)を初演。
10月4日、2回目のプラハ訪問。10月29日、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527(YouTube)をエステート劇場で初演。熱狂的に受け入れられました。

プラハのエピソードを描いた映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』(2017年)がこちら。

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mozart03.jpg4月、ボンからウィーンに訪れていた16歳のベートーヴェンがモーツァルトに会ったと推測されています。しかし、現代の研究でもまだ決定的な文書が発見されていません。ただ、手塚治虫は『ルードウィヒ・B』で、二人の出会いを描いています。
 ・まさに“ザ・手塚治虫”といえる遺作『ルードウィヒ・B』

5月28日、父レオポルト死去。

8月10日、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(YouTube)作曲。国や時代を超えて、ほとんどの人が知っているモーツァルトの中で最も有名な曲。
『マリオブラザーズ』(1983年)のOP(YouTube)など、影響を受けた作品は無数。

1788年(32歳) 『第39番』『第40番』『交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」K.551』(YouTube)の
いわゆる「3大交響曲」を作曲。


●増える借金、そして死
人気とともに浪費が激しくなる反面、演奏会では多くの収入を得られなくなり借金が増えていきます。モーツァルトの才能に恐れをなした宮廷楽長サリエリらのイタリア閥が、裏でモーツァルトの演奏会を妨害したとも言われています。この逸話を元に描かれた映画が『アマデウス』(1984年)です。

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1789年(33歳) 4月〜6月ベルリン旅行。すでに金欠が始まっていましたが、フリーメイソン仲間で貴族のパトロンが旅費を出してくれるというので気楽に同行しました。

1790年(34歳) 1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ』 K.588(YouTube)初演。

2月に神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、弟のレオポルト2世が即位。10月15日フランクフルトで行われる戴冠式にモーツァルトも同行します。そこで借金までして演奏会を開催し、
『ピアノ協奏曲26番 ニ長調 K.537「戴冠式」』(YouTube)などを演奏。一発逆転を狙いましたが、不入りで終わり逆に借金が増える始末。

1791年(35歳) 9月6日、レオポルト2世は兼任するボヘミア国王としての戴冠式をプラハで挙行。モーツァルトも同行し、『皇帝ティートの慈悲』K.621(YouTube)を初演。このときすでに体調を崩し、薬を服用していました。

9月30日、オペラ『魔笛』K.620(YouTube)初演。体調が11月から悪化し、12月5日ウィーンにて死去。

死去してから230年経った今でも彼の作品は色あせることなく、私たちの魂を癒し、奮い立たせてくれます。


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2020年01月02日

ザルツブルクでモーツァルトの足跡を巡る

前回からの続きです。

マカルト橋を渡り、通りをいくつか過ぎるとゲトライデ通りに入ります。世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」として中世の街並みが保存されており、まるでタイムスリップした感覚を味わえます。そして、この通りの9番地にある建物を見に、世界中から人が訪れています

Salzburg: Getreidegasse
Salzburg: Getreidegasse / Jorge Franganillo



それがこの黄色い建物モーツァルトの生家です。1756年1月27日、モーツァルトはこの家で生まれました。修復はされていますが、復元ではなく当時のままの建物です。現在は4階から2階を博物館(※1)、1階はスーパーとして使用しています。
Mozarts Geburtshaus
Mozarts Geburtshaus / dronepicr

※1 毎日9:00〜17:30、受付は閉館時間30分前まで。7・8月は8:30〜19:00、12月24日は9:00〜15:00。
入場料は大人12ユーロ、6〜14歳の子供3.5ユーロ、15〜18歳の子供4ユーロ。家族・シニアなど各種割引あり(2021年現在)


さて、この生家の左横には小路があり、そこを少し進むと「大学広場」に出ます。そして、そこを左折して5分ほど進むと、旧市街の中心「レジデンツ広場」に着きます。広々としているため、フェスティバルやコンサート、スポーツのイベントなどがよく開催されています。

広場の南側にはザルツブルク大聖堂があり、モーツァルトは誕生の翌日1756年1月28日にここで洗礼を受けました。当時使われた洗礼盤もそのまま残っています。
Austria-00347 - Salzburg Cathedral
Austria-00347 - Salzburg Cathedral / archer10 (Dennis)


レジデンツ広場の北東には「モーツァルト広場」が隣接しています。1842年に建てられたモーツァルト像があるので、記念撮影にオススメです。


さて、もうひとつモーツァルトゆかりの建物として重要なのが、「モーツァルトの家」です。モーツァルト一家は、最初に紹介した生家から1773年にここに引っ越し、1780年までの7年間住んでいました。
mozart-residence.JPG


この建物は第2次世界大戦で被害を受けましたが修復され、博物館になっています(※2)。場所は旧市街ではなく、ザルツァッハ川を渡った対岸のすぐ近くのところにあります。車の往来が多いところに位置しているため、全景写真を撮るときはご注意ください。

※2 開館時間、入場料、割引など、モーツァルトの生家と同じ



最後にモーツァルト関連のお土産としてメジャーな「モーツァルトクーゲル」をご紹介します。球状のチョコレート菓子で、菓子職人のパウル・フュルストが1890年に作り出し、今なお売れ続けるロングセラーです。
Austrija 2013 - 281
Austrija 2013 - 281 / Janitors


オーストリアでは土産屋だけでなく、スーパーでも売っているほどメジャーなチョコですが、これらは機械によって大量生産されたもの。
一方、元祖フュルストでは、今も手作りで生産しており、ザルツブルクの自社店舗でのみ販売しています。せっかくザルツブルクを訪れたのなら、貴重なフュルスト製を買ってみてはいかがでしょうか。旧市街に本店があります。

これら以外にも、ザルツブルクの見所はまだまだありますが、まずはモーツァルト関連から訪れるのが良いでしょう。参考になれば幸いです。


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2020年01月01日

モーツァルトの生まれ故郷、ザルツブルクからHappy New Year !

モーツァルトの生まれ故郷、ザルツブルク(オーストリア)から新年明けましておめでとうございます。海外で新年を迎えるなんて、数年前までは考えられませんでした。まぁ、バカンスじゃなくて仕事ではありますが・・・(;^ω^) 今年も頑張ります!

salzburg.jpg


さて、モーツァルトの話題の前に、今回はザルツブルクの歴史について触れたいと思います。
本来ザルツブルクはかなりの寒冷地でかつての1月なら雪が積もっているのが普通ですが、近年は異常気象の影響か、写真の通り雪はありません。

また、この写真1枚にはザルツブルクの特徴が凝縮されています。
 @発展の要となった「ザルツァッハ川」
 A奥にそびえ立つ巨大な「ホーエンザルツブルク城」
 B旧市街につながる「マカルト橋」


●ザルツァッハ川:都市名の由来にもなった塩(ザルツ)
英語でソルト(salt)という「塩」はドイツ語ではザルツ(salz)と呼びます。またブルクは「砦」や「町」の意で、つまりザルツブルクは「塩の町」を意味します。ただ塩が産出されたのはここではなく、15キロほど南のバート・デュルンベルクになります。製塩されたものを船乗りたちがザルツァッハ川(塩の川)を通じてヨーロッパ各地に送り込み、その利権でザルツブルクはどんどん発展していきました。


●ホーエンザルツブルク城:大司教の権力の象徴
塩は生命の維持に不可欠ですし、冷蔵庫がない時代では今よりもはるかに貴重な保存調味料でした。そのため古今東西問わず、塩の利権を持つものが大きな権力を持つことになるのです。

ではザルツブルクで塩の利権を独占していた者は誰か? 通常なら有力貴族ですが、この都市では珍しく聖職者である大司教が利権を独占し、王のように君臨していました。その影響力は強大で、ザルツブルクは長らく独立した領邦国家としての立場を保ち続け、オーストリアの支配下になるのは19世紀と最近になってからです。

町のどこからでも見える巨大なホーエンザルツブルク城は大司教の権力の象徴です。ただ、当初この城はまさに防衛が目的で建設されました。南下してくる神聖ローマ帝国から身を守るためです


●叙任権闘争で教皇側についたザルツブルク
962年に神聖ローマ帝国が成立して以来、帝国皇帝とローマ教皇は協力関係にありました。
 ★関連記事 ・正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム

しかし、それから1世紀経ったとき、聖職者の任命権を巡ってお互いが優位性を主張し、叙任権闘争が勃発します。ヨーロッパ各都市は皇帝派と教皇派に分かれて、紛争状態に陥りました。

ザルツブルクは教皇派につき、1077年ホーエンザルツブルク城を建設し皇帝派からの攻撃に備えます。なにせ、同年1月にはあの有名な「カノッサの屈辱」が起こっており、中欧諸国は極度の緊張状態にありました。これはローマ教皇グレゴリウス7世が、叙任権闘争で激しく対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門。ハインリヒ4世が許しを請うべく、イタリアのカノッサにてグレゴリウス7世に跪いて謝罪した事件のことです。これにより破門を解かれたハインリヒ4世は、今度は一転してグレゴリウス7世を攻め込み、世相は不穏な空気で包まれていた時期でした。

その後も皇帝派 VS 教皇派の争いは何世紀にもわたって続きますが、13世紀になるとザルツブルクは皇帝派を支持するようになります。ホーエンザルツブルク城はその度に増築・拡大されて行きました。


●マカルト橋:埋め尽くされる恋人たちのカギ
ザルツブルクは、ザルツァッハ川を挟んでホーエンザルツブルク城がある区域を「旧市街」、反対側は「新市街」と分けられています。旧市街には教会や歴史的建造物が数多く遺されており、これらを中心に「ザルツブルク市街の歴史地区」として世界遺産に登録されています。ではマカルト橋を渡って、見所いっぱいの旧市街へ向かいましょう!

写真の通り、マカルト橋にはカラフルな装飾がなされていますが、実はこれ南京錠です。世界中から訪れるカップルたちが永遠の愛を誓って、別れないように南京錠に鍵をかけているわけです。
さぁ!橋を渡れば、そこは中世ヨーロッパの面影いっぱいの旧市街です

makaruto.JPG



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2019年12月21日

ワンちゃん好きは号泣必至の『The Art of Racing in the Rain』

The-Art-of-Racing-in-the-Rain.jpgこの映画は良かったです。まさに「全米が泣いた」
(ノД`)・゜・
『The Art of Racing in the Rain』(2019年)。
日本未公開ですが、サブスクでのデジタル配信はされています。邦題は『エンツォ レーサーになりたかった犬とある家族の物語』

主人公はワンちゃんです。名前はエンツォ。彼の目から見た人間社会をモノローグで語っていく物語です。声はなんとケビン・コスナー犬にずいぶんと豪華なキャストを当てたもんです

彼は子犬のときに、飼い主となるデニーと出会います。そしてデニーと生活していく中で人間社会を学んでいきます。

デニーはプロレーサー。F1を目指しており、それなりに好成績ですが、色々なトラブルに見舞われて一進一退。それでも側には、いつも忠犬エンツォがいました。

時が経つにつれ、デニーはイブという美しい女性と結婚。そして可愛い女の子も生まれます。家族3人と一匹の楽しい日々。ところが、それも長続きしません。様々な不運が家族を襲います

それでも、困難に立ち向かうデニー。くじけそうなときにも側にはエンツォがいました。

そんなエンツォとも別れがやってきます。犬は人間よりは長く生きられませんから・・・。そんなラストシーンに号泣せずにいられるでしょうか。もう画面が涙でまったく見えませんよ

John.png私も犬を飼ってましたらね。ジョンという名の柴犬でね。小学生になったばかりの頃、子犬だったジョンが我が家に来ました。だから、一緒に大きくなったわけで、もう家族の一員でした。

悩みがあるときは、ジョンと散歩に行くと悩みがどうでもよくなったもんです。しかし、高校生のときに老衰で天国に行きました。

あぁジョン・・・(ノД`)・゜・。おやっ、これはジョンの写真じゃないか!!


本作はワンちゃん好きはもとより、誰が見ても感動することでしょう。


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ハプスブルク家の風格漂う立喰そば

立喰そば「ういーん」

soba-vienna.jpg


うーん、ハプスブルク家の風格、モーツァルトの調べが聞こえてくるようだ!
(^▽^)

ちなみに、JR鶴見駅前(横浜市)にあります。



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2019年12月20日

超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(後編)

habsburg03.jpg写真はウィーンの中心地にあるホーフブルク王宮。神聖ローマ帝国およびオーストリア帝国、つまりはハプスブルク家の政治の中心でした。

観光名所となっている現在でも敷地内の建物は大統領公邸や国立図書館、シシィ博物館などとして利用されています。


●盟主の座をプロイセンに奪われる
さて、「ドイツ連邦」の盟主となったオーストリア帝国でしたが、負け戦が続きます。クリミア戦争で外交的に失敗し、1859年にはサルデーニャ王国(イタリア王国の前身)に敗北。極めつけは、1866年の普墺戦争においてライバルのプロイセン王国に大敗。ドイツ連邦から追放され、盟主の座を完全にプロイセン王国に奪われてしまいました


●民族問題の妥協策としてオーストリア=ハンガリー帝国が成立
力を大きく低下させたハプスブルク家に、もうひとつ頭の痛い民族問題がのしかかります。オーストリア帝国の領土は現在のチェコ、スロバキア、ハンガリー、旧ユーゴスラビアなどに及んでおり、各民族は自治や独立を望んでいたのです。

その結果、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人に対する妥協(アウスグライヒ)を優先し、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立しました。


●深まる民族問題が発展し、第一次世界大戦勃発
しかし、これ以後も帝国内の民族問題は深刻さを深めていきます。1908年、オスマン帝国からボスニア・ヘルツェゴビナを奪取し併合した結果、セルビア人やムスリムらの反感が高まります

そして1914年、オーストリア皇位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人青年に暗殺されるサラエボ事件が発生します。報復としてオーストリアがセルビアへ宣戦布告したことをキッカケに戦火が全世界に飛び火し、第一次世界大戦が始まってしまうのです

結局、オーストリア=ハンガリー帝国は敗戦し、1918年に帝国は解体。チェコスロヴァキア、ハンガリーなどが次々に独立しました。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国はここに崩壊。その後はオーストリア共和国となり、ハプスブルク家の入国は禁止されます


●ハプスブルク本家のその後
カール1世は亡命後も何度か返り咲きを狙いますが、その度に挫折。最後は島流しに遭い、そこで亡くなります。そのとき息子で元皇太子のオットー・フォン・ハプスブルクはまだ9歳でした。

その後、オットーは主にスペイン、ベルギー、ドイツなどで亡命生活を送ります。ナチス・ドイツが台頭した第二次世界大戦中は、オーストリア併合を阻止するために精力的に活動しましたが、協力者たちは次々にナチスにより殺害。やむなくオットーたちはアメリカまで亡命し、大戦末期にヨーロッパに戻りました。

終戦してから時代は下り、1961年にオットーはオーストリア帝位継承権の放棄を宣言して、ようやくオーストリア共和国に入国を許されます。その後は欧州議会議員を務めました。この頃親交のあった日本人が、「戦後のフィクサー」と呼ばれた田中清玄です
激動の人生を歩んだオットーは98歳で2011年に亡くなりました。


●現代を生き抜くハプスブルク家
habsburg04.jpgオットーの息子カール・ハプスブルク=ロートリンゲン(59歳、写真左)が、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の当主です。かつて父と同様に欧州議会議員を務めました。1男2女の子供がいます。

写真の子供たちも今は成長し、ユニークな経歴を歩んでいます。長女エレオノーレ(26歳、写真右から2人目)は美貌を生かしモデルに。長男フェルディナント(22歳、写真中央)はF3レーサーとして活躍しています。

なお彼らはハプスブルク=ロートリンゲン家の本家ですが、その他一門は500人以上もおります。きっとその多くは名士として活躍しているんでしょうねー。以上で中欧の華麗なる一族ハプスブルク家の歴史は終わりです。それでは、また!


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