2020年04月02日

『BLEACH』de 英語・中国語フレーズ

bleach_aizen.jpg


・・・あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ

Don’t use such strong words. It only makes you look weak.

不要使用过分的用词。看起来很虚弱



一応この国のトップということになっている安倍という人は、第1期政権(2006年)のときから言葉遊びが好き。

「美しい国ニッポン」
「問題の究明は徹底的にやる」
「一億総活躍社会の実現」
「女性が輝く日本」
「かつてない規模の経済対策をとりまとめる」

でも、あんまり大言壮語は言わない方がいいと思うんだよね。所詮はマスク2枚なわけだし・・・。

愛染さんに言われちゃいますよ。「弱く見えるぞ」って。


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2020年03月29日

展示手法がポップなプラハの「共産主義博物館」

新型コロナウイルスの影響でしばらくは海外旅行に行くことはできないと思いますが、もしも、いずれチェコ共和国の首都プラハを訪れることがあれば、ぜひ立ち寄ってほしい施設があります。
それが「共産主義博物館」公式サイト)です。

(○´∀`)ノ「共産主義だって?誰がそんなマニアックなところに行くんだよ!」と突っ込まれそうですね。たしかにプラハ城やカレル橋、旧市街広場、ストラホフ修道院などなど、百塔の都には見所がいっぱい。何を好き好んで、暗い時代の遺産である「共産主義」を見に行かなくてはならんのだと思うでしょう。

でもね。ぜひ騙されたと思って行ってみてください。私も友人に勧められて行きました。展示手法がとてもポップなので、誰でも楽しめるはず。実際、若い人も結構訪れていました


communism01.JPG●規模は小さいながら、貴重な展示物が豊富
共産主義博物館はプラハの中心街から近く、火薬塔や市民会館などの名所がある共和国広場に面しています。1階にスーバーBILLAがある白い建物で、入口で380コルナ(約2000円)払って2階に上って入場します。うーん入場料、結構高いな ((+_+))。クレジットカードOK、ユーロは不可です。

さて博物館に入ると、いきなり入口からデデーン!!と
ビッグな赤い星とマルクス像が出迎えてくれます!! 
運営者は絶対に狙って展示していますよね、コレ。(;^ω^)

この博物館はアメリカ人実業家が私財で開設した経緯があるため、政府系博物館のような堅苦しさがありません。そのため、こういう冗談なのか本気なのかわからない展示がいくつもあって面白いです。

そもそもチェコ人にとって共産(社会)主義時代(1948年〜1989年、当時の国名はチェコスロバキア)は重苦しい思い出しかなく、本来ならば忘却したい時代のはず。しかし、このポップな展示手法によって重苦しさは中和されており、楽しみながら過去の歴史を学ぶことができます。

下は館内の様子。若い人が多く見に来ていることに驚きました。こちらのコーナーでは共産主義時代のレジャーやスポーツについて展示・説明しています。旧ソ連を筆頭に共産主義陣営は、アメリカなどの資本主義陣営に対抗するためスポーツを国威発揚としてよく利用していました。

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写真左下は共産主義時代の教室を再現したもの。
写真右下は国境警備の様子。もしも国境を越えて資本主義諸国に行くヤツを見つけたら、
そのときは容赦なく・・・(((( ;゚Д゚)))
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●迫真の資料多数、「プラハの春」&「ビロード革命」
写真下は1968年に起こった「プラハの春」を象徴する一枚の写真。ソ連軍の戦車がプラハの街を制圧した一コマです。
1968年4月、共産党第一書記になったドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げ、「プラハの春」と呼ばれる改革運動を実施。検閲の廃止などを行いました。この改革に、それまで抑圧されていたチェコスロバキア国民たちが大いに期待したのは、言うまでもありません。

ところが8月、ソ連軍主体のワルシャワ条約機構軍が軍事介入し、チェコスロバキア全土を制圧してしまいます。ソ連の圧力でドプチェクは辞任に追い込まれ、「プラハの春」は崩壊。チェコ国民は、再び絶望的な時代を生きるはめになったのです。
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そうした長く暗い時代にも、ついに終止符が打たれるときがやってきます。まず大ボスであるソ連にほころびが出始め、1985年にペレストロイカと呼ばれる政治改革が始まります。そして1989年11月、ベルリンの壁が崩壊。その後は堰を切ったように、目まぐるしく状況が変化。中欧・東欧のほとんどの共産主義陣営が、共産党一党独裁を放棄しました。

チェコスロバキアでも民主化を求めるデモが相次ぎ、ついに12月、共産党政権が打倒されます。この革命は大きな流血に至らずに成し遂げられたため、軽く柔らかなビロード(ベルベット)の生地にたとえて
「ビロード革命」と名付けられました。

写真下は「ビロード革命」の中心人物となったヴァーツラフ・ハヴェル(1936年〜2011年)です。劇作家として大成しましたが、「プラハの春」崩壊後に反体制運動の指導者として活動。何度も当局に逮捕・投獄されながらも「ビロード革命」を成し遂げ、大統領に就任します。
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この他、館内には映画室もあり、ビロード革命時のプラハの様子が上映されています。デモ隊を威嚇する警官たち、それに抵抗する民衆たちの姿。当時の息遣いが感じられて鳥肌が立ちます

またお土産コーナーでは、共産主義を礼賛した当時のプロパガンダ・ポスターなど、ネタ好きにはたまらない逸品が売られています。

そして極めつけはコレ! レーニンとスターリン像なんとトイレの横に置かれているんです。共産主義なんてもうこりごり、「お前らなんて、便所がお似合いだぜ! (# ゚Д゚)」というメッセージなんでしょうか?
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(;^ω^) とっ、とにかく共産主義博物館オススメですよ!


外交官として実際に「プラハの春」に直面した経験に基づいて書かれた小説。宝塚歌劇にもなりました。

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2020年01月03日

モーツァルトの生涯と代表作品

mozart.jpg天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35年と短い生涯ながら、626曲もの楽曲を作曲しました。そんな天才の生涯を駆け足で見て行きます。

1756年(0歳)
1月27日、神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領で誕生。父レオポルトはヴァイオリニストで、ザルツブルクの宮廷作曲家としてすでに名を成していました。父は息子が天才であることを見出し、幼少期から音楽教育を施します。3歳でチェンバロを弾き始め、5歳で『アンダンテ ハ長調 K.1a』(YouTube)を作曲したほどの神童ぶりでした。
 ・ザルツブルクでモーツァルトの足跡を巡る


●音楽教育、就職活動を兼ねた欧州旅行
父は息子の神童ぶりを各国の宮廷に披露するために、国外旅行を何度も行いました。

1762年(6歳)
第1回ウィーン旅行。10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏。その際、モーツァルトは宮殿の床で滑って転んでしまいますが、7歳の皇女マリー・アントワネットに手を取って助けてもらいます。お礼に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげるね」と言ったそうです。
 ・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(中編)


1763年 - 1766年(7 - 10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年 - 1769年(11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。
1769年 - 1771年(13 - 15歳) 第1回イタリア旅行。
1771年(15歳) 第2回イタリア旅行。

1772年(16歳)
8月21日、新任のコロレド大司教より、ザルツブルク宮廷のコンツェルト・マイスターに任命される。

1772年 - 1773年(16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。
1773年(17歳) 第3回ウィーン旅行。
1774年 - 1775年(18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。


18世紀の時代にこれだけの旅行をしていたのですから、モーツァルト父子とんでもないです。渡航費が工面できるほどレオポルドの名声があったこと。父が子ヴォルフガングに相当の期待をしていたことがわかります。

モーツァルトは16歳でザルツブルクの宮廷音楽家に就職していますが、できれば首都ウィーンやその他大国の宮廷にキャリアアップするのを目指していました。しかし、どれもいい結果につながりませんでした。
今でこそモーツァルトは人類史上頂点に位置する音楽家ですが、当時は有力音楽家たちが占めていたポストに食い込めませんでした。モーツァルトのような天才でさえも「現実の壁」がいかに険しいかわかる話です

この頃の作品のひとつ、『ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219《トルコ風》』(YouTube)。


●仕事のやりがいと上司に悩む
前々回でも述べましたが、ザルツブルクは聖職者の大司教が塩の利権を独占し、王のように君臨する珍しい領邦でした。コロレド大司教はモーツァルトにとって君主であり、宮廷という職場においては社長のような存在でした。そして、この上司とはことごとく馬が合わなかったことで有名です。

コロレド大司教はミサ典礼における大がかりな音楽を禁止し、ひたすら厳格な宗教音楽を求める上司。かたや自己表現をしたくてたまらない天才肌の部下。合うはずがありません (;^ω^)

1777年(21歳) 9月1日、父子そろってザルツブルク宮廷から解雇され、父レオポルドはショックで寝込みます。
モーツァルトは次の就職口を探すことも含めて長期旅行を計画。今回は父の代わりに母アンナが同行することになりますが、レオポルドにとってこれが妻との最後の別れになってしまいます。

この頃の作品のひとつ、『ミサ曲 第12番 ハ長調 K.262(ミサ・ロンガ)』(YouTube)。


●就職活動失敗とザルツブルク帰郷
母子は西に移動し、ミュンヘン、アウクスブルク、マンハイムへ移動します。当時、マンハイムの宮廷オーケストラは、ヨーロッパ随一のものでした。ここで演奏会に出演して成功をおさめたものの就職活動は成功せず、パリへ向かいます。

マンハイム滞在時の作品のひとつ、『フルート協奏曲第1番ト長調 K.313(285c)』(YouTube)。


1778年(22歳) 3月〜9月までパリ滞在。就職活動は散々な結果で、7月3日には同行した母がパリで病死。失意のドン底に。

パリ滞在時の作品のひとつ、『交響曲第31番 ニ長調「パリ」K.297』(YouTube)。


1779年(23歳) ザルツブルクに帰郷。復職していた父の尽力で、1月25日宮廷オルガニストとして復帰。仕事はありがたいけど、クソ上司・コロレド大司教の下で働くストレスMAXな日々の再開。

この頃の作品のひとつ、『ミサ曲ハ長調 K.317 “戴冠式ミサ”』(YouTube)。


●ブラック企業を退職し、ウイーンでフリー作曲家に転身
1780年(24歳) バイエルン公国から依頼されたオペラ『クレタの王イドメネオK.366』(YouTube)作曲・演奏のためにミュンヘンに滞在。長期出張で久々の息抜き。

1781年(25歳) ウィーン滞在中のコロレド大司教に呼びつけられ、モーツァルトもウィーンへ。そこで二人の対立が激化し、解雇されます。もうザルツブルクには戻らない決意をし、ウイーンでフリー作曲家としてスタートを切ることに。

この頃の作品のひとつ、誰もが知っている『きらきら星変奏曲』ハ長調 K. 265(YouTube)。


●独立、結婚、そして売れっ子へ
1782年(26歳) 独立したてで不安定な状況のときに、舞い込んだ仕事、オペラ『後宮からの誘拐 K.384』(YouTube)を作曲。7月、ウィーンで初演。
8月3日、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

1783年(27歳) ザルツブルクに帰郷。6月、第1子誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
この頃の作品のひとつ、『ピアノソナタ第11番』<第3楽章が有名なトルコ行進曲>(YouTube)。

1784年(28歳) 第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
12月14日、陰謀論でお馴染みのフリーメイソンの慈善ロッジ(ウィーン)に入会。死去するまで熱心な会員で、後に父レオポルドとハイドンも勧誘して入会させてます。フリーメイソンのための作品を10曲も書きました。
そのひとつ、『フリーメイソンのための葬送音楽 ハ短調 K.477』(YouTube)

1785年(29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。ハイドンは24歳年上の先輩ですが、二人は技量を認め合い、親友となります。
ハイドン・セットのひとつ、『弦楽四重奏曲第14番 ト長調 K. 387』(YouTube)。

1786年(30歳) 5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492(YouTube)をブルク劇場(ウィーン)で初演。年末にはプラハで公演し大ヒット。


●プラハでの熱狂的な歓迎と父の死
1787年(31歳) 1月11日にプラハに招待され、1ヶ月以上滞在。どこへ行っても大人気でした。1月19日、『交響曲第38番 ニ長調「プラハ」K. 504』(YouTube)を初演。
10月4日、2回目のプラハ訪問。10月29日、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527(YouTube)をエステート劇場で初演。熱狂的に受け入れられました。

プラハのエピソードを描いた映画『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』(2017年)がこちら。

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mozart03.jpg4月、ボンからウィーンに訪れていた16歳のベートーヴェンがモーツァルトに会ったと推測されています。しかし、現代の研究でもまだ決定的な文書が発見されていません。ただ、手塚治虫は『ルードウィヒ・B』で、二人の出会いを描いています。
 ・まさに“ザ・手塚治虫”といえる遺作『ルードウィヒ・B』

5月28日、父レオポルト死去。

8月10日、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(YouTube)作曲。国や時代を超えて、ほとんどの人が知っているモーツァルトの中で最も有名な曲。
『マリオブラザーズ』(1983年)のOP(YouTube)など、影響を受けた作品は無数。

1788年(32歳) 『第39番』『第40番』『交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」K.551』(YouTube)の
いわゆる「3大交響曲」を作曲。


●増える借金、そして死
人気とともに浪費が激しくなる反面、演奏会では多くの収入を得られなくなり借金が増えていきます。モーツァルトの才能に恐れをなした宮廷楽長サリエリらのイタリア閥が、裏でモーツァルトの演奏会を妨害したとも言われています。この逸話を元に描かれた映画が『アマデウス』(1984年)です。

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1789年(33歳) 4月〜6月ベルリン旅行。すでに金欠が始まっていましたが、フリーメイソン仲間で貴族のパトロンが旅費を出してくれるというので気楽に同行しました。

1790年(34歳) 1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ』 K.588(YouTube)初演。

2月に神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、弟のレオポルト2世が即位。10月15日フランクフルトで行われる戴冠式にモーツァルトも同行します。そこで借金までして演奏会を開催し、
『ピアノ協奏曲26番 ニ長調 K.537「戴冠式」』(YouTube)などを演奏。一発逆転を狙いましたが、不入りで終わり逆に借金が増える始末。

1791年(35歳) 9月6日、レオポルト2世は兼任するボヘミア国王としての戴冠式をプラハで挙行。モーツァルトも同行し、『皇帝ティートの慈悲』K.621(YouTube)を初演。このときすでに体調を崩し、薬を服用していました。

9月30日、オペラ『魔笛』K.620(YouTube)初演。体調が11月から悪化し、12月5日ウィーンにて死去。

死去してから230年経った今でも彼の作品は色あせることなく、私たちの魂を癒し、奮い立たせてくれます。


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2020年01月02日

ザルツブルクでモーツァルトの足跡を巡る

前回からの続きです。

マカルト橋を渡り、通りをいくつか過ぎるとゲトライデ通りに入ります。世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」として中世の街並みが保存されており、まるでタイムスリップした感覚を味わえます。そして、この通りの9番地にある建物を見に、世界中から人が訪れています

Salzburg: Getreidegasse
Salzburg: Getreidegasse / Jorge Franganillo



それがこの黄色い建物モーツァルトの生家です。1756年1月27日、モーツァルトはこの家で生まれました。修復はされていますが、復元ではなく当時のままの建物です。現在は4階から2階を博物館(※1)、1階はスーパーとして使用しています。
Mozarts Geburtshaus
Mozarts Geburtshaus / dronepicr

※1 毎日9:00〜17:30、受付は閉館時間30分前まで。7・8月は8:30〜19:00、12月24日は9:00〜15:00。
入場料は大人12ユーロ、6〜14歳の子供3.5ユーロ、15〜18歳の子供4ユーロ。家族・シニアなど各種割引あり(2021年現在)


さて、この生家の左横には小路があり、そこを少し進むと「大学広場」に出ます。そして、そこを左折して5分ほど進むと、旧市街の中心「レジデンツ広場」に着きます。広々としているため、フェスティバルやコンサート、スポーツのイベントなどがよく開催されています。

広場の南側にはザルツブルク大聖堂があり、モーツァルトは誕生の翌日1756年1月28日にここで洗礼を受けました。当時使われた洗礼盤もそのまま残っています。
Austria-00347 - Salzburg Cathedral
Austria-00347 - Salzburg Cathedral / archer10 (Dennis)


レジデンツ広場の北東には「モーツァルト広場」が隣接しています。1842年に建てられたモーツァルト像があるので、記念撮影にオススメです。


さて、もうひとつモーツァルトゆかりの建物として重要なのが、「モーツァルトの家」です。モーツァルト一家は、最初に紹介した生家から1773年にここに引っ越し、1780年までの7年間住んでいました。
mozart-residence.JPG


この建物は第2次世界大戦で被害を受けましたが修復され、博物館になっています(※2)。場所は旧市街ではなく、ザルツァッハ川を渡った対岸のすぐ近くのところにあります。車の往来が多いところに位置しているため、全景写真を撮るときはご注意ください。

※2 開館時間、入場料、割引など、モーツァルトの生家と同じ



最後にモーツァルト関連のお土産としてメジャーな「モーツァルトクーゲル」をご紹介します。球状のチョコレート菓子で、菓子職人のパウル・フュルストが1890年に作り出し、今なお売れ続けるロングセラーです。
Austrija 2013 - 281
Austrija 2013 - 281 / Janitors


オーストリアでは土産屋だけでなく、スーパーでも売っているほどメジャーなチョコですが、これらは機械によって大量生産されたもの。
一方、元祖フュルストでは、今も手作りで生産しており、ザルツブルクの自社店舗でのみ販売しています。せっかくザルツブルクを訪れたのなら、貴重なフュルスト製を買ってみてはいかがでしょうか。旧市街に本店があります。

これら以外にも、ザルツブルクの見所はまだまだありますが、まずはモーツァルト関連から訪れるのが良いでしょう。参考になれば幸いです。


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2020年01月01日

モーツァルトの生まれ故郷、ザルツブルクからHappy New Year !

モーツァルトの生まれ故郷、ザルツブルク(オーストリア)から新年明けましておめでとうございます。海外で新年を迎えるなんて、数年前までは考えられませんでした。まぁ、バカンスじゃなくて仕事ではありますが・・・(;^ω^) 今年も頑張ります!

salzburg.jpg


さて、モーツァルトの話題の前に、今回はザルツブルクの歴史について触れたいと思います。
本来ザルツブルクはかなりの寒冷地でかつての1月なら雪が積もっているのが普通ですが、近年は異常気象の影響か、写真の通り雪はありません。

また、この写真1枚にはザルツブルクの特徴が凝縮されています。
 @発展の要となった「ザルツァッハ川」
 A奥にそびえ立つ巨大な「ホーエンザルツブルク城」
 B旧市街につながる「マカルト橋」


●ザルツァッハ川:都市名の由来にもなった塩(ザルツ)
英語でソルト(salt)という「塩」はドイツ語ではザルツ(salz)と呼びます。またブルクは「砦」や「町」の意で、つまりザルツブルクは「塩の町」を意味します。ただ塩が産出されたのはここではなく、15キロほど南のバート・デュルンベルクになります。製塩されたものを船乗りたちがザルツァッハ川(塩の川)を通じてヨーロッパ各地に送り込み、その利権でザルツブルクはどんどん発展していきました。


●ホーエンザルツブルク城:大司教の権力の象徴
塩は生命の維持に不可欠ですし、冷蔵庫がない時代では今よりもはるかに貴重な保存調味料でした。そのため古今東西問わず、塩の利権を持つものが大きな権力を持つことになるのです。

ではザルツブルクで塩の利権を独占していた者は誰か? 通常なら有力貴族ですが、この都市では珍しく聖職者である大司教が利権を独占し、王のように君臨していました。その影響力は強大で、ザルツブルクは長らく独立した領邦国家としての立場を保ち続け、オーストリアの支配下になるのは19世紀と最近になってからです。

町のどこからでも見える巨大なホーエンザルツブルク城は大司教の権力の象徴です。ただ、当初この城はまさに防衛が目的で建設されました。南下してくる神聖ローマ帝国から身を守るためです


●叙任権闘争で教皇側についたザルツブルク
962年に神聖ローマ帝国が成立して以来、帝国皇帝とローマ教皇は協力関係にありました。
 ★関連記事 ・正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム

しかし、それから1世紀経ったとき、聖職者の任命権を巡ってお互いが優位性を主張し、叙任権闘争が勃発します。ヨーロッパ各都市は皇帝派と教皇派に分かれて、紛争状態に陥りました。

ザルツブルクは教皇派につき、1077年ホーエンザルツブルク城を建設し皇帝派からの攻撃に備えます。なにせ、同年1月にはあの有名な「カノッサの屈辱」が起こっており、中欧諸国は極度の緊張状態にありました。これはローマ教皇グレゴリウス7世が、叙任権闘争で激しく対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門。ハインリヒ4世が許しを請うべく、イタリアのカノッサにてグレゴリウス7世に跪いて謝罪した事件のことです。これにより破門を解かれたハインリヒ4世は、今度は一転してグレゴリウス7世を攻め込み、世相は不穏な空気で包まれていた時期でした。

その後も皇帝派 VS 教皇派の争いは何世紀にもわたって続きますが、13世紀になるとザルツブルクは皇帝派を支持するようになります。ホーエンザルツブルク城はその度に増築・拡大されて行きました。


●マカルト橋:埋め尽くされる恋人たちのカギ
ザルツブルクは、ザルツァッハ川を挟んでホーエンザルツブルク城がある区域を「旧市街」、反対側は「新市街」と分けられています。旧市街には教会や歴史的建造物が数多く遺されており、これらを中心に「ザルツブルク市街の歴史地区」として世界遺産に登録されています。ではマカルト橋を渡って、見所いっぱいの旧市街へ向かいましょう!

写真の通り、マカルト橋にはカラフルな装飾がなされていますが、実はこれ南京錠です。世界中から訪れるカップルたちが永遠の愛を誓って、別れないように南京錠に鍵をかけているわけです。
さぁ!橋を渡れば、そこは中世ヨーロッパの面影いっぱいの旧市街です

makaruto.JPG



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2019年12月21日

ワンちゃん好きは号泣必至の『The Art of Racing in the Rain』

The-Art-of-Racing-in-the-Rain.jpgこの映画は良かったです。まさに「全米が泣いた」
(ノД`)・゜・
『The Art of Racing in the Rain』(2019年)。
日本未公開ですが、サブスクでのデジタル配信はされています。邦題は『エンツォ レーサーになりたかった犬とある家族の物語』

主人公はワンちゃんです。名前はエンツォ。彼の目から見た人間社会をモノローグで語っていく物語です。声はなんとケビン・コスナー犬にずいぶんと豪華なキャストを当てたもんです

彼は子犬のときに、飼い主となるデニーと出会います。そしてデニーと生活していく中で人間社会を学んでいきます。

デニーはプロレーサー。F1を目指しており、それなりに好成績ですが、色々なトラブルに見舞われて一進一退。それでも側には、いつも忠犬エンツォがいました。

時が経つにつれ、デニーはイブという美しい女性と結婚。そして可愛い女の子も生まれます。家族3人と一匹の楽しい日々。ところが、それも長続きしません。様々な不運が家族を襲います

それでも、困難に立ち向かうデニー。くじけそうなときにも側にはエンツォがいました。

そんなエンツォとも別れがやってきます。犬は人間よりは長く生きられませんから・・・。そんなラストシーンに号泣せずにいられるでしょうか。もう画面が涙でまったく見えませんよ

John.png私も犬を飼ってましたらね。ジョンという名の柴犬でね。小学生になったばかりの頃、子犬だったジョンが我が家に来ました。だから、一緒に大きくなったわけで、もう家族の一員でした。

悩みがあるときは、ジョンと散歩に行くと悩みがどうでもよくなったもんです。しかし、高校生のときに老衰で天国に行きました。

あぁジョン・・・(ノД`)・゜・。おやっ、これはジョンの写真じゃないか!!


本作はワンちゃん好きはもとより、誰が見ても感動することでしょう。


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