2014年03月08日

大河ドラマ『平清盛』

大河ドラマ『平清盛』(2012年、主演:松山ケンイチ)には、西行待賢門院堀河崇徳天皇藤原忠通など、百人一首の歌人がかなり登場します。彼らはドラマの中で、

kiyomori-kajin.jpg

「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
などと持ち歌を披露していました。あれは素晴らしい試みだったと思います。学校で習う百人一首は無味乾燥な暗記教育ですが、あれなら平安時代の人々がどんな場面で、どんな心情で歌を歌ったのかが手に取るようにわかるからです

ただ、こういったことも放送時期には視聴者の共感を得られず、歴代大河ドラマ最低視聴率を樹立してしまいました。それでも本作は、10年、20年後に再評価される可能性を秘めていると思います。


★関連記事
大河ドラマレビュー一覧


NHK大河ドラマ 平清盛 完全版 Blu-ray-BOX 第壱集

新品価格
¥42,328から
(2015/10/19 03:41時点)


posted by すぱあく at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月01日

わずかにあるジャーディン・マセソンの研究書

ジャーディン・マセソンは日本でも大きな影響を与えながら、現在ではすっかり過去のものになっています。
この理由の一つは、研究書がほぼ皆無ということです
本来であれば、ジャーディン・マセソン横浜支店(英一番館)には膨大な数の商業記録があったはずですが、太平洋戦争や関東大震災によって、ほとんど消失してしまいました。

とはいえ、香港本社や上海支店には日本から送られた文書が大量に残されており、それらの資料のうち20世紀初頭までの分は、1935年にジャーディン・マセソンからケンブリッジ大学図書館へ寄贈されました。日本軍による中国侵略が激しくなっていた時期なので、資料の流出を防ぐための措置だったのかもしれません。

ケンブリッジ大学にあるこの史料を研究すれば相当のことがわかるわけですが、閲覧・利用のための条件はかなり厳しいです。
・申請時、研究者であれば所属大学の学長の紹介状が必要。
・コピーは数枚ならOKだが、大量の場合は不可。ノートを取るしかないが、膨大な量なので全部となるとイギリスに長期滞在するしかない
・著作物を発表する場合は、許可が必要。

以上の条件をクリアできる日本の研究者はほとんどおらず、そのため研究書が乏しいわけです。
それでも、この難事業をクリアした日本人研究者はわずかにいたのです。それが石井寛治東京大学名誉教授(1938年〜、現75歳)です。

石井教授は1977年3月(当時39歳)から翌年9月までの20ヶ月間、イギリスに留学しました。彼はこの期間全部を費やして、なんとケンブリッジ大学にあるジャーディン・マセソンの史料を全部ノートに書き写してきたのです。下宿先から自転車を飛ばして大学図書館に行き、朝10時から18時30分までず〜っと書き写し、それを20ヶ月間続けたとのこと。なんという情熱!! まさに人間賛歌!! そして生まれた著書が以下です。
開国当時の日本が列強諸国に対抗できたのは、ジャーディン・マセソンら外国商人との貿易によって、資本蓄積を実現できたからではないかと石井教授は述べています。


さらに東大出版会からは、以下の研究書も発行されています。こちらはケンブリッジ大学にあるジャーディン・マセソンの史料のうち、中国における活動を調べたものです。

どちらも情報量は凄まじく、上記2冊でジャーディン・マセソン研究は相当進んだと考えられます。
しかし残念ながら後続の研究者がいないため、ジャーディン・マセソンは日本では依然としてマイナーなんですね。

あとあるのは陰謀論。
例えば、『龍馬の黒幕』(加治将一)では、グラバー(マセソン商会・長崎代理人)が龍馬を影から操り、明治維新を実現させたと述べています。さらには「すべてはフリーメーソンの仕業だったんだよ!!」、「なんだってキバヤシ〜!?」の展開で、さぁ大変。これはこれで面白いけどね。

元外務官僚の原田武夫氏は陰謀論否定者。ロスチャイルド家会員制サイトに正面から取材し、ジャーディン・マセソンのことにも触れています。「1838年ロスチャイルド家は、ジャーディン・マセソンを中国マーケットにおける代理人として指名した」とさらっととんでもないことを書いてます。本当かよ!? 本人は陰謀論否定者なんだけど、Amazonレビューを読むと世間様からは「そっち系」と思われている様子。

一方、英語で書かれた書籍は山のようにあります。もしかしたら、単純に日本人らしく言語が研究の壁になっているだけかもしれません。
The Thistle and The Jade: A Celebration of 175 Years of Jardine, Matheson & Co.
Jardine Matheson: Traders of the Far East
A Business in Risk: Jardine Matheson and the Hong Kong Trading Industry


★関連記事
ジャーディン・マセソン年表
日本史 年代別記事一覧
イギリス史 年代別記事一覧
ブックレビュー一覧
posted by すぱあく at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月18日

横浜中華街の歴史

chinatown_zenrinmon.jpg日本三大中華街(横浜、神戸、長崎)の中でも、横浜中華街は最大の規模を誇っています。本日はこの横浜中華街の歴史を見ていきます。

ペリー来航(1853年)以来、幕府はアメリカから開港を迫られてきました。そして、1859(安政6)年、ついに開国することになり、当時は単なる漁村だった横浜に大慌てで港を建設し、外国人居留地をつくったのです

同年、この外国人居留地に外資系第一号として進出したのが、
ジャーディン・マセソン商会です。同社の横浜支店は、地元住民から英一番館と呼ばれていました。
長州ファイブをロンドンにいざなったジャーディン・マセソン商会

その後も外資系企業は続々と日本にやってきました。こうした欧米人に従ってやっきたのが、中国人の「買弁」(ばいべん)たちです。「買弁」というのは、清朝末期に欧米人を支援した中国人商人のことで、計算や語学に長けた人材が重宝がられました

欧米人たちが、中国人買弁を日本に連れてきた理由は
・日本人と漢字で筆談できるから
・欧米人と日本人では、商習慣がかなり違ったため、間に中国人を入れた方がまだマシだったから、のようです。

その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、さらに多くの中国人商人たちが来日し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などが建てられていきました。これが横浜中華街の原型です。ただ、この頃は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などが大半で、中華料理店は多くありませんでした。

1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国しますが、戦後にまた戻ってきます。ところが、1899(明治32)年には居留地が廃止されてしまいます。加えて、日本人の職を守るため、中国人は職業制限を受けます。

受難が続く中国人でしたが、たくましいのも彼らの特徴。三把刀(料理・洋裁・理髪)という刃物を使う職業に特化し、この道のエキスパートになっていきます。中華街に中華料理屋が増えていったのはこれが理由です

chukagai.gif居留地は廃止されましたが、外国人はそのまま住んでいいことになりました。欧米人の多くは帰国したため、この頃からしだいに中国人街の雰囲気となり、「南京町」と呼ばれるようになります。この中国人街には、袁世凱に追われ日本に亡命(1913年8月〜1916年)した孫文も隠れ住んでいました。

しかし、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でこの中国人街も大打撃を受け、1930年代にようやく復興します。その後、1937(昭和12)年7月7日に日中戦争が勃発し、華僑の多くは帰国します。

戦後になると、近くにGHQ本部が置かれたこともあり、米軍相手の商売で盛り返します。戦勝国である中国からの物資に恵まれ、飲食店が100軒近くになりました。香港との往来も復活して横浜港は賑わい、南京町も発展しました。

1955(昭和30)年、中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、門の上に「中華街」と書かれたことで、この街は次第に「中華街」と呼ばれるようになります。

1972(昭和47)年、日中国交正常化が実現。パンダブームなどとともに中華料理目当ての日本人観光客が増えていきます。同年、横浜中華街発展会協同組合が発足します。

2004(平成16)年、横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として「元町・中華街駅」が設置されました。日本の中華街が他の国々のチャイナタウンと大きく違う点は、来街者の95%が中国人でないこと。他はちょうどその逆なのです。それだけ、魅力的な観光地として発展してきたといえます。


★関連記事
横浜中華街の物産一覧  ・歓迎日本 神奈川県  ・神奈川県 関連記事一覧  
ジャーディン・マセソン年表  ・日本史 年代別記事一覧  ・中国史 年代別記事一覧


萬珍楼社長である華人・林兼正氏の話を元に執筆したもの
posted by すぱあく at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月13日

長州ファイブをロンドンにいざなったジャーディン・マセソン商会

eiichiban02.jpg

幕末から今日まで、日本史の節目で大きな影響を与えてきたジャーディン・マセソン商会
なんと、今も世界的な大商社として現存します

ジャーディン・マセソン商会は、「アジアを裏から操った」とか「坂本龍馬の黒幕だった」という感じで“陰謀論”で語られることが多いです。その側面は大いにありますが、そんな会社が今も存在し続けていることに歴史ロマンを感じます

さて前回、長州ファイブがロンドンに降り立ったエピソードを述べましたが、なぜそんなことが実現できたかというと、イギリスの商社であるジャーディン・マセソン商会が、船も渡航費用もイギリス生活も全部面倒を見たからなんですね

彼らがこんな太っ腹なことをしたのは、当然ビジネスのためです
攘夷(外国人を排斥する)と騒ぐ武士の国ではなく、イギリス寄りの政府を日本に作りたかったんですね。
事実、結果的に日本はそうなります。そして、イギリスを含む欧米列強はこうした手法を各国で無数に展開していきます。たしかに、これは“陰謀論”そのものですね。

そんなジャーディン・マセソン商会は、幕末の日本で長崎横浜に拠点を置いていました。


●マセソン商会・長崎代理人 トーマス・グラバー
Glover.jpg長崎の拠点を預かっていたのはトーマス・グラバー(1838年〜1911年)。幕末ファンなら、誰もが知る超有名人です。坂本龍馬や岩崎弥太郎をはじめ、多くの志士たちと交流をしていました。

スコットランド生まれの彼は、21歳のときに上海へ渡りジャーディン・マセソン商会に入社。数ヶ月後、開港まもない長崎に移り、1861年にマセソン商会・長崎代理人としてグラバー商会を設立します。

当初は生糸や茶の輸出を行っていましたが、荒れた幕末の日本で討幕派に武器や弾薬を売り始めたら、これが面白いように売れまくりました。倒幕派のイギリス留学を斡旋したのもグラバーです。長州ファイブだけでなく、薩摩藩の志士もイギリスに留学させました(後述)。

なお、彼が住んでいた日本最古の木造洋風建築は現存しており、「旧グラバー住宅」として観光施設になっています。2015年には世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつに登録されました。


●横浜支店長 ウィリアム・ケズウィック
eiichiban01.jpg今度は横浜の拠点に目を向けてみましょう。1859年、ジャーディン・マセソン商会横浜支店が設立されました。これが日本に進出した外資系企業の第一号といわれています。設立したのはウィリアム・ケズウィック。ジャーディン・マセソン商会の創業者ウィリアム・ジャーディンの甥です。上海支店から移り、横浜支店長になりました。


横浜支店は、地元住民から英一番館と呼ばれていました。上の絵は、英一番館の館内で行われていた大陳列会です。長州ファイブは江戸に到着後、この英一番館に立ち寄り、横浜港にあるチェルスウィック号(ジャーディン・マセソン商会所有の船)に乗って、洋上の旅に出発したのです。

なお、英一番館があった場所は横浜港大さん橋の近くで、現在はシルクセンターが建てられています。かつて、ここに存在していたことを示す石碑もあります(トップ画像)。石碑右にある文字盤には以下の内容が書かれています。
eiichiban03.jpg



●上海支店を訪問
Jardinbill.jpg横浜を出発してから6日後に、長州ファイブ一行は上海に到着。ここでジャーディン・マセソン商会上海支店を訪問しています。上海支店は1843年に設立。ビルは今も上海外灘(バンド)に現存しており、観光地になっています。
 ・茨城空港発→現在も大発展中の上海行き

上海を出発してから半年後にロンドンに到着。やはり船旅は長い時間がかかりますね。彼らの留学生活を世話したのは、ジャーディン・マセソン商会ロンドン社長のヒュー・マセソンでした。彼は同社のもう一人の創業者ジェームス・マセソンの甥です。
 ・ジャーディン・マセソン商会 創業物語

さて、ジャーディン・マセソン商会は同時期に、薩摩藩の若者もイギリス留学させています。
それが薩摩藩遣英使節団。メンバーは新納中三・五代友厚・寺島宗則、町田久成、森有礼ら19名。この薩摩藩士と長州ファイブは、ロンドンで会い、交遊しています。当時の長州藩と薩摩藩は殺しあうほどの敵同士でしたが、異国では同じ“日本人”という意識が芽生えたのかもしれませんね

それにしても、大英帝国そしてジャーディン・マセソン商会の影響力は凄まじいですね。当時の日本は、彼らの手のひらの上で踊っていたようなものかもしれません。


★関連記事
ジャーディン・マセソン年表  ・ジャーディン・マセソン 記事一覧
日本史 年代別記事一覧  ・イギリス史 年代別記事一覧
神奈川県 記事一覧  ・長崎県 記事一覧


薩摩藩士の視点でイギリス留学を描いた作品。

薩摩スチューデント、西へ (光文社時代小説文庫)

新品価格
¥922から
(2021/11/23 02:51時点)


ラベル:幕末 世界遺産
posted by すぱあく at 06:51 | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月12日

ロンドンに降り立った5人の侍、長州ファイブ

Choshu_Five.jpg1863年11月、5人の若き侍がロンドンに降り立ちました。
それが長州ファイブ(長州五傑)です。
メンバーは、井上聞多(井上馨)(当時28歳)、遠藤謹助(当時27歳)、山尾庸三(当時26歳)、伊藤俊輔(伊藤博文)(当時22歳)
野村弥吉(井上勝)(当時20歳)。

カッコつけて「長州ファイブ」といっているわけではなく、彼らが留学したユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学最古のカレッジ)に顕彰碑が建てられており、そこに「Choshu Five」と刻まれているのです。

江戸幕府によって出国が禁止されていた時代にあって、
前回ご紹介した長州藩主・毛利敬親の命を受け、密出国によってイギリス留学を実現させたのです。
2006年、彼らの留学生活を描いた『長州ファイブ』が映画化されているので、それを見るととてもわかりやすいです。

長州ファイブ [DVD]

新品価格
¥2,083から
(2013/12/23 09:10時点)




そこは世界で最も発展し、最も強大な大英帝国。5人が見たロンドンの風景はどんなものだったでしょうか?
あまりの発展ぶりに驚愕し、攘夷(外国人を排斥する)という考えはまったく非現実的であることに気付きます。そして、帰国した彼らによって討幕、明治維新が加速していくわけです。

メンバー5人のうち、井上聞多(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)はもっとも早く帰国。5ヶ月後(1864年4月)にロンドンを出発します。次いで、1866年に遠藤謹助が帰国。山尾庸三と野村弥吉(井上勝)がもっとも長く滞在し、1868年に帰国しました。
choshu_five03.jpg

この留学で5人は、世界情勢、最新技術、英語などを学びます。そして、明治新政府の重鎮となっていくのです。
 井上馨は、初代外務大臣。「外交の父」と呼ばれました。
 遠藤謹助は、造幣局長。「造幣の父」と呼ばれました。
 山尾庸三は、工部卿。「工学の父」と呼ばれました。
 伊藤博文は、初代内閣総理大臣。「内閣の父」と呼ばれました。
 井上勝は、鉄道庁長官。「鉄道の父」と呼ばれました。


★関連記事
日本史 年代別記事一覧  ・イギリス史 年代別記事一覧  ・ジャーディン・マセソン年表  
山口県 記事一覧  ・映画・ドラマレビュー一覧
posted by すぱあく at 18:15 | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月11日

ダイソー矢野社長と「そうせい侯」毛利敬親

独裁的なカリスマ社長によって伸びる会社もあれば、「もう部下にお任せ」というトップの下で成長する組織もありますよね

現代なら、100円ショップのダイソーですかね。日本中に出店していてイケイケのイメージがあるダイソーですが、
矢野博丈社長は、とってもネガティブな発言をする方として、ネット上では人気があります

ネガティブすぎて逆に凄いダイソー社長の発言
・私はどうしようもないただのオッサンです。
・私はインターネットも分からないし、時代遅れな人間ですから。
・新しい店舗は社員たちが決めて作り上げました。私にはとても、こんな店作りはできません。
・ダイソーはつぶれる。そうしないために一緒にがんばりましょう、と社員に言っている。

Mouri_Takachika.jpg矢野社長を見ていると、幕末の長州藩主毛利敬親(もうり たかちか)のようだな〜と思います。

毛利敬親(1819年〜1871年)は、長州藩の第13代藩主。彼は家臣の意見に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため
「そうせい侯」と呼ばれていました。

そのため、彼は長いこと“バカ殿”みたいなイメージがありました。たしかに、同時代の薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂なんかは、超アグレッシブでしたからね。

でも本当は、敬親が「そうせい侯」だったおかげで、部下(家臣)たちは伸び伸びと才能を発揮し、ついには明治維新を成し遂げたんじゃないですかね

敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいました。そこで藩政改革を行い、家柄や年齢にこだわらず有能な人材は取り立てることにしたのです。そうして登場してきたのが、高杉晋作や吉田松陰でした。
敬親はわずか11歳の吉田松陰の講義を聞いて感動し、自ら門下生になったほどでした。

さらには、井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人の長州藩士(長州ファイブ)を密航によってイギリス留学させます。まぁ彼がさせたと言うより、部下が「留学したい」といったのを「そうせい」とOKしたんだと思いますが、当時は禁止されていた外国への渡航をOKしちゃう当たりが凄すぎます。
このメンバーの一人、伊藤博文は下級武士でしたが、このイギリス留学によって世界の知識と英語を身に付けて台頭し、ついには初代総理大臣になるわけです。

これらの事象を見ると、毛利敬親なくして明治維新は成し遂げられたのだろうかと思ってしまいます


★関連記事
ロンドンに降り立った5人の侍、長州ファイブ
日本史 年代別記事一覧


初めて敬親のことを知った本。超わかりやすくて、オススメの一冊。


司馬遼太郎 『世に棲む日日』。「かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」と敬親を評価しています。NHK大河ドラマ『花神』(1977年)の原作の一部にもなりました。


榎木孝明が演じた敬親がワンシーンだけ登場。劇中でも「そうせい」と言っています。監督、分かってるぅ!

長州ファイブ [DVD]

新品価格
¥2,083から
(2013/12/23 09:10時点)


ラベル:幕末
posted by すぱあく at 09:20| 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。