2014年05月31日

黒田官兵衛から金印まで。歴史ファンにはたまらない福岡市博物館

fukuoka-museum.JPG前回に続き、福岡市レポートです。黒田官兵衛をはじめとした黒田家にまつわる資料が多数所蔵されている福岡市博物館公式サイト)に行ってきました。

NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』が放映中ということもあり、今年だけの特別展示を多く企画しています。ちなみに、現在は「小官兵(官兵衛)宛て荒木村重書状」(6月1日まで)と「藤と餅〜黒田家家紋のものがたり」(6月15日まで)を行っています。荒木村重といえば官兵衛を幽閉した重要人物。この書状は今回が初公開だそうです。

特別展示の期間が終わっても、貴重な品々が常設されていますのでご心配なく。
中でも見逃せないのが、天下三名槍のひとつ「日本号」
nihongou.jpg


柄を含めた総長は321.5p、刃の長さは79.2p。室町時代に作られ、その後は豊臣秀吉の重臣・福島正則の手に渡りました。福島正則は大の酒好き。同じ酒好きで「黒田二十四騎」のひとり母里太兵衛(演:速水もこみち)を酒宴に誘うため、「酒宴で大盃を飲み干せば、この名槍・日本号を与える」と言ったのが運のつき。母里太兵衛は本当に飲み干してしまい、名槍・日本号をゲットされちゃいました。そのため「呑み取りの槍」という別名もあります。
ちなみに、福岡で歌い継がれている民謡「黒田節」は、このエピソードを歌詞にしたものです。
酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を
呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

kurodabushi-robo.JPGこの日、博物館1Fロビーでは、「黒田節ロボット」が黒田節を披露していました。大きな日本号を持って見事な踊りっぷり、凄いロボットだ。

このロボット、頭部は博多人形(焼物)で、衣装(かみしも)は博多織で作られています。動きは黒田節の舞を参考にプログラミング。伝統と最先端の技術によって、09年12月に誕生したロボットなんです。

普段はロボスクエア(公式サイト)にいます。




さて、福岡市博物館を訪れたら、絶対に見逃せないものがあります。それが金印。歴史の授業が嫌いだった人でも、教科書の始めのほうに登場するから覚えているのではないでしょうか。そう、あの金印です。

金印には「漢委奴國王」と刻されています。解釈には諸説ありますが、『後漢書』東夷傳の記述から、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ、冊封のしるしとして賜ったものと考えられています。その後金印は、時代の流れとともに散逸し、長い眠りにつきます。

眠りから覚めるのは18世紀末の江戸時代。甚兵衛という博多の百姓が、水田の耕作中に偶然発見。そして、藩主・黒田家の所蔵となり、1978年(昭和53年)に福岡市美術館に寄贈されました。

金印は一見の価値ありです。何より、イメージと異なり小さいです。歴史の教科書ではアップで掲載しているものだから、どんなゴツイ印鑑だと思いきや、そうではありません。実用向きのコンパクトサイズなんです。
売店で原寸大レプリカが売っていました。どうです小さいでしょ。実際にゴム印になっています。年賀状なんかにこれを押してあげたら、歴史ファンは狂喜乱舞するんじゃないでしょうか。
kin-in.jpg



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2014年05月30日

黒田官兵衛と九州、そして福岡

Yoshitaka_Kuroda.jpg5月24日から3日間、福岡県福岡市に仕事で行ってきました。せっかく福岡に来たので、黒田官兵衛(1546年〜1604年)に関連したスポットを見に行きたいと思っていました。

現在放映中のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では、主な舞台が姫路城がある近畿地方になっています。官兵衛はこの地で頭角を現し、豊臣秀吉の軍師となり、彼の天下統一を後押ししていくのです。
では黒田官兵衛が、福岡県に舞台を移すのはいつ頃でしょうか。それには、まず彼と九州との関係から見ていく必要があります


中津城主になる(大分県)
1582年、本能寺の変が起こり、織田信長は明智光秀によって討たれます。このとき官兵衛は秀吉の軍師として、ともに毛利輝元がいる中国地方を攻めていました。
官兵衛は秀吉に献策します。「まずは毛利輝元と和睦して大急ぎで引き返し、明智光秀を討ちましょう」と。これが官兵衛の策として名高い「中国大返し」です。この結果、秀吉の天下取りはイッ気に躍進しました。
その後は四国、そして九州を攻めることで関わりが深くなります。九州平定後の1587年、豊前国の中に領地が与えられ、中津城(大分県)を築城します。


名護屋城より朝鮮出兵(佐賀県)
1590年、秀吉の天下統一はあとわずかのところまで迫りました。最後の敵は、小田原城にいる北条氏政・氏直父子です。このとき官兵衛は、小田原城に入って彼らを説得し、無血開城を成功させています。これにより、秀吉の天下統一が実現しました。
その後、1592年から朝鮮出兵が始まります。官兵衛も拠点の名護屋城(佐賀県唐津市)を出発し、朝鮮に渡って戦闘を繰り広げました。この戦いは1598年まで続き、秀吉が派遣した日本軍は消耗するだけ消耗して帰国します
しかし、この戦いでほとんど兵を出さずに、力を蓄えていた人物がいます。それが徳川家康でした。秀吉の死後、圧倒的な戦力を背景に家康は台頭。ついに、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。


九州全域で大暴れ
官兵衛は徳川方につき、長男・長政(幼名は松寿丸。人質として信長に処刑されるところだった人物)を戦場に出します。しかし、このとき官兵衛は中津城にいました。
そして、家康が関ヶ原に集中している隙に、九州で大暴れして領地拡大を行いました
九州を制圧した上で東上し、余勢を駆って家康と対決する構想を持っていたようです。しかし、関ヶ原の戦いはあっけなく家康の勝利に終わります。そして、家康は九州での戦いに対して停戦命令を出し、この構想は破れます。
官兵衛も家康にこれ以上疑いを持たれないよう、奪った領土を献上しました


福岡藩の成立(福岡県)
関ヶ原の合戦の後、勲功として家康から長政に対し筑前国52万3千石が与えられ、福岡藩が成立します
ちなみに「福岡」という地名は、黒田氏の発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市)から名付けられたと言われています。
初代藩主は長政ですが、官兵衛は藩祖として崇められています。この頃の官兵衛は、すでに隠居して太宰府天満宮内の草庵にいました。また、藩の居城である福岡城内三の丸に「御鷹屋敷」が完成すると、そこで妻幸円とともに静かに余生を送りました。
そして1604年、官兵衛は京都の伏見にある藩邸で息を引き取ります。享年59歳でした。

官兵衛、そして黒田家にまつわる資料は現在、福岡市博物館に所蔵されています。もちろん、時間をひねり出して行ってきました。そのレポートは次回


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2014年03月31日

水戸藩の藩校・弘道館に行ってきました!

syomon-mini.jpg仕事で茨城県内のあらゆる観光地を取材してきましたが、大事なところにまだ行っていませんでした。
それが水戸藩の藩校弘道館です。なにせ震災による倒壊を修復し終えたのがつい最近。全体が文化財で構成されていてすべての作業を慎重に進めなければならないため、これだけ時間がかかったんですね。この修復完了を記念して3月27日(木)〜4月6日(日)まで無料で弘道館に入館できます
歴史ファンとしてこれは見逃せません。早速、個人的に行ってきました。

mitokomon-mini.jpg現在の水戸は梅の花が咲き誇っています。例年、この時期は偕楽園と弘道館を会場に「水戸の梅まつり」が開催され、一年で最も多くの観光客が訪れます。そのお祭りも3月末で終了するので、今が水戸を訪れる最適の時期といえるでしょう。

ちなみに、写真左は水戸駅を下りたらすぐのところにある水戸黄門と助さん、格さんの銅像です。水戸藩第2代藩主の徳川光圀をモデルにしたドラマ「水戸黄門」のおかげで、日本人のほとんどが知っているほどバツグンの知名度を誇っています。

写真上は弘道館の正門。弘道館は水戸駅北口から徒歩5分ほどのところにあります



ところで弘道館って何?
1841年に開校した水戸藩の藩校です。武士の子弟たちが通い、専門的な学問を学んでいました。しかも、当時の藩校としては最大規模で、武芸はもとより医学・薬学・天文学などまで教育していたいわば「総合大学」のようなものでした。こんな巨大な藩校を建設できたのも水戸藩が徳川御三家だったからです。
水戸藩、尾張藩、紀州藩の御三家は、将軍家に次ぐ地位を持っていました

nariaki_yoshinobu-mini.jpgこの弘道館を開設したのは、水戸藩第9代藩主の徳川斉昭(とくがわ なりあき、1800年〜1860年)。幕末期の名君として有名な人物で、時代劇にもよく登場します。
NHK大河ドラマ『八重の桜』(2013年)では伊吹吾郎、映画『桜田門外ノ変』(2010年)では北大路欣也、大河ドラマ『篤姫』(2008年)では江守徹、大河ドラマ『徳川慶喜』(1998年)では菅原文太が演じました。名君を表現するため、大物俳優が演じることが多くなっています。

もうひとつ徳川斉昭の有名な話が、最後の将軍・徳川慶喜の父であるということです。そうです、徳川慶喜って水戸藩の出身なんですよ! 彼も5歳から11歳まで弘道館で英才教育を受けました。なお写真右は弘道館にある斉昭と七郎麻呂(慶喜の幼名)の像です。

seityo-mini.jpg

写真上は弘道館のメインの建物である「正庁」です。ここで様々な講義が行われました。ちなみに、ここには入館することができます。畳や掛け軸などを見ていると、当時の様子が脳裏に浮かんできて感動します。

kakejiku-mini.jpg tatami-mini.jpg

歴史ファンはもちろん、そうでない方でも楽しめる、弘道館はオススメのスポットですよ。


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2014年03月17日

國學院大學と日本大学と近畿大学のちょっとした関係

3月16日のニュースのよれば、2014年度の私立大学一般入試の志願者数で、近畿大学が初めて全国1位になったそうです。昨年まで4年連続トップだった明治大学を抜いての1位で、関西の私立大学が首位になったのは今回が初の快挙。「近大マグロ」などの特徴あるニュースを発信続けた結果といえます。少子化で大学経営は厳しくなる一方ですが、独自路線を追求したところは強みを発揮するようです。

さて、この近畿大学は設立の歴史を見ると、日本大学と関係があることがわかります。そして、その日本大学は國學院大學と若干のつながりがあります。この3大学のちょっとした関係を見てみます。
daigaku-zu.jpg

神道の教育機関・皇典講究所
1882(明治15)年、神道の研究・教育機関として皇典講究所が設立されました。脱亜入欧、富国強兵を目指していた明治新政府は、国家宗教として神道を大きく成長させようと考えます。そこで皇典講究所が作られ、神職の育成を行いました。そして1890年、さらに教育機関として「國學院」が設置されます。

しかし1945(昭和20)年、日本は敗戦しGHQの管轄下に置かれます。ここで国家神道は解体され、1946(昭和21)年に皇典講究所も解散します。とはいえ、事業と資産をすでに大学に昇格していた「國學院」が継承します。そして、日本で2つしかない神職を育成する大学として現在に至ります。
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皇典講究所からスタートした日本大学
Yamada_akiyoshi.jpgこの皇典講究所の設立に尽力したのが、初代司法大臣の山田顕義(やまだ・あきよし、1844年〜1892年)でした。彼は皇典講究所の初代所長になったほか、1889(明治22)年に
日本法律学校も作ります。明治時代の法律学校といえば、ほとんどが欧米の法律を学んでいまいたが、ここは神道の研究機関らしく日本法律を学ぶ目的で創られました。なお、日本法律学校は開校当初、皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていましたが、皇典講究所と組織的に繋がりがあったわけではありません。あくまで山田の私塾的な存在でした。そんな山田を日本大学では学祖としています。

山田顕義はあまり有名な人物ではありませんが、彼も松下村塾で吉田松陰に師事した長州藩士です。2012年に日本大学がスポンサーになって、『知られざる幕末の志士 山田顕義物語』というドラマも放映されました。山田役は山田涼介(青年期)と渡哲也(晩年期)。


日本大学にルーツがある近畿大学
koichi-seko.jpgともにマンモス大学として知られる日本大学と近畿大学ですが、近畿大学は日本大学にルーツがあります。近畿大学の学祖は、衆議院議員も務めた世耕弘一(せこう・こういち、1893年〜1965年)。彼は貧しい出自ながら苦学して日本大学法学部を卒業。卒業後は朝日新聞社に就職しますが、彼の才能に注目していた日本大学が1923(大正12)年にベルリン大学へ派遣します。世耕はベルリンに5年留学し、帰国後は日本大学の教授になります。

日本大学は、1925(大正14)年に現在の東大阪市に「日本大学専門学校」を設置します。これが後に日本大学から独立して「大阪専門学校」と改称します。1944(昭和19)年に世耕は「大阪専門学校」と「大阪理工科大学」の学長になり、1949(昭和24)年には両校を合併させて近畿大学とします。そして初代総長及び理事長に就任しました。世耕は設立当初から「日本人の学びの場を広めるため、医学部から文学部まで全学部揃えた大学にしたい」と考えていました。近畿大学がマンモス化の道を歩んできたのは、学祖の想いからといえます

このようなルーツ話は、その大学に通っている学生やOBですら知らない人が多いものです。とはいえ、学祖たちがどんな思いで学校を創立したかを知ると、とても鼓舞されるものがあります。


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2014年03月10日

源氏を紐解いてみる

前回源為朝の話をしましたが、歴史に興味がない人にとっては、「源なんとか」って多すぎて訳がわからんというのが本音でしょう。そこで、源氏を紐解いてみます。

以下は、重要な人物にしぼった源氏の簡略化系図。それでも名前が似ているので、
わかりやすいようにNHK大河ドラマ『平清盛』(2012年)に登場したキャストを使ってみました。
genzi.jpg


臣籍降下で「源氏」が誕生
源氏も平氏も藤原氏も元を辿れば天皇や皇族になります。平安時代に入ると、皇族が増えすぎてしまい、朝廷の財政が圧迫されていました。そこで実施されたのが臣籍降下(しんせきこうか)。皇族から離れて自分で稼ぎなさいねということで、要するにリストラ策です。そこで、姓を与えられ臣下の籍になったものたちが、源氏、平氏、藤原氏、橘氏というわけです。

ただ一口に源氏といってもルーツとなる天皇ごとに異なり、源氏二十一流と言われるほど多いのです。
ただ、鎌倉幕府、足利幕府を作った清和源氏が最も隆盛を誇ったので、「源氏=清和源氏」といっても過言ではありません。その清和源氏もさらに河内源氏や摂津源氏などと細かく分派していきますが、ここでは省略します。


嵯峨源氏と村上源氏
清和源氏以外で重要な源氏は嵯峨源氏と村上源氏です。
嵯峨源氏は嵯峨天皇(52代、786年〜842年)の子孫たちで、最初に源氏を名乗った一派です。重要人物としては左大臣・源融(みなもとの とおる、822年〜895年)がおり、平安初期には朝廷の一大勢力を形成しました。しかし、その後の子孫たちはぱっとせず、地方に土着として武家となりました。

村上源氏は村上天皇(62代、926年〜967年)の子孫たち。武家のイメージが強い源氏ですが、この村上源氏は別。「公家源氏」と呼ばれ、貴族を輩出してきました


八幡太郎義家
源氏の多くはすっかり地位が低くなってしまいますが、台頭の基盤を作ったのが「八幡太郎」の通称で知られる源義家(みなもとの よしいえ、1039年〜1106年)。東国で武名を轟かせ、白河法皇の意向で院昇殿を許されました。武士の時代の到来を告げる出来事の一つです。


清和源氏、ドン底の時代
八幡太郎義家が立てた武功も、その子・義親(よしちか、?〜1108年)が略奪や殺人を犯したおかげで台無しになります。義親は平氏に討伐され、以降は平氏が台頭します。義親の子・為義(ためよし、1096年〜1156年、演:小日向文世)は出世に恵まれず、さんざんな人生を送ります保元の乱(1156年)では崇徳上皇方について敗北。後白河天皇方についた子の義朝(よしとも、1123年〜1160年、演:玉木宏)に斬首されました。為義と一緒に戦った子の為朝(ためとも、1139年〜1170年、演:橋本さとし)は伊豆大島へ流罪になりました。

しかし義朝も出世には恵まれませんでした。すでに平清盛が台頭していたため、彼の出る幕はほとんどなかったのです。起死回生を狙った義朝は、公家たちのクーデターに参加。これが平治の乱(1160年)です。しかし、義朝はこの戦いに敗北し、戦死します。

この敗戦により源氏の関係者が処刑されるなか、源頼朝(よりとも、1147年〜1199年、演:岡田将生)は奇跡的に助命され伊豆に流されます。そして、平清盛率いる平家の時代が到来。一方の源氏はまさにドン底の時代でした。頼朝は伊豆で幽閉され、監視役が北条時政(1138年〜1215年、演:遠藤憲一)でした。しかし、あろうことかその娘の政子(1157年〜1225年、演:杏)が頼朝と恋に落ち、2人は結婚します。時政は立場的にもかなり頭を痛めたでしょうね。とはいえ、この北条時政が鎌倉幕府成立後は暗躍しまくります


頼朝の挙兵により源平合戦へ
隆盛を極めた平家でしたが、「奢れる者は久しからず」。平家に不満を持つ勢力に後押しされて、源氏の棟梁・源頼朝が挙兵します。この挙兵に加わったのが、異母弟の源義経(よしつね、1159年〜1189年、演:神木隆之介)や「木曽義仲」で知られる従兄弟の源義仲(よしなか、1154年〜1184年)などでした。ちなみに、義仲の父である義賢(よしかた、?〜1155年)は、後継問題で対立していた兄・義朝の謀略で殺されています。義仲にとって頼朝は父の敵の子ですが、源平合戦では頼朝に協力します。

1181年に平清盛が死去してから平家は一気に弱体化します。1183年には源義仲に破れて京都が攻略され、平家は西国に落ち延びて行きます。しかしその後、義仲は傍若無人な態度を取り続けたため、頼朝の命を受けた義経軍に破れ討ち死にします。源氏が京都で内紛を起している間、平氏は西国で体勢を立て直します。それでも源義経が屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで連勝し1185年に平家は滅亡します。


鎌倉幕府の成立と将軍家の断絶
両雄並び立たず。源平合戦で活躍しすぎた源義経は、頼朝にとって脅威となります。そして、1189年に奥州藤原氏とともに追討されてしまいます。対立勢力をすべて排除した頼朝は1192年に鎌倉幕府を成立させます。

1199年に頼朝が死去してからは、子の頼家(よりいえ、1182年〜1204年)が第2代将軍になります。しかし、この頃から北条時政が暗躍を開始。弟の源実朝(さねとも、1192年〜1219年)を担ぎ、頼家を伊豆に幽閉し、ついには暗殺してしまいます。そして実朝が第3代将軍になりますが、実権は北条氏が握りました。実朝も頼家の子・公暁に暗殺され、将軍家は断絶。以後、鎌倉幕府は執権北条氏によって動かされ、清和源氏はその影に埋もれていきます


足利氏によって室町幕府が成立
鎌倉幕府は長いこと執権北条氏によって独占されましたが、それも終焉のときがやってきます。八幡太郎義家の傍系だった足利氏が清和源氏の棟梁として台頭してくるのです。そして1333年、足利尊氏(1305年〜1358年)が鎌倉幕府を滅亡させ、1336年から室町幕府を成立させます。

室町幕府は内紛により終始安定しませんでしたが、それでも第3代将軍・足利義満(1358年〜1408年)のときは唯一安定していました。彼は清和源氏としてはじめて、村上源氏よりも上回る官位を獲得し、名実共に清和源氏をナンバーワンにさせました。そしてこれ以降、戦国時代には様々な武家が出現しますが、そのほとんどが源氏の後裔を称しました。
室町幕府はトホホな将軍が多すぎ!!


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2014年03月09日

琉球王国のルーツ!? 鎮西八郎・源為朝

今回は琉球王国のルーツとされる源為朝(みなもと の ためとも)のお話です。

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』によれば、1166年に舜天(しゅんてん)と呼ばれる人物が誕生し、彼が最初の琉球王になったとされています。加えて驚くべきことに、舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝の子であると述べられています

もちろんこれは伝説であり、確証はありません。実際のところ源為朝は保元の乱で敗れ、伊豆大島に流刑にされました。そして、そこで亡くなっています。琉球まで逃れて、その子供が国王になるというのはファンタジーでしょう。

でも、日本本土とは異なる歴史・文化を自認する琉球の人々が、本土からやって来た人物をルーツとしていたことは興味深いです。このエピソードを掘り下げてみたいと思います。


源為朝ってどんな人?
tametomo.jpg源為義の八男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父に当たる人物です。NHK大河ドラマ『平清盛』(2012年)にも登場しました。演じたのは橋本さとし。180cmを超える巨体が放つ矢はミサイルのような破壊力を持つ劇中最強の人物です

史実でも身長は2mを超えた強弓の使い手でした。勇猛で傍若無人、暴れまくったのちに、父・為義から勘当されて九州に追放されます。当時の九州は鎮西(ちんぜい)と呼ばれ、そこでも暴れまくったので鎮西八郎とう名で人々から恐れられていました。

そんな中、都である京都では即位したばかりの後白河天皇とその兄である崇徳上皇の二派が対立し、保元の乱(1156年)が勃発します。
戦になる動きが出始めた頃、父・為義は為朝の勘当を解いて鎮西から都に呼び寄せます。その凄まじい武力を必要としていたからです。

後白河天皇の側には、関白・藤原忠通、源義朝、平清盛らがつきました。
崇徳上皇の側には、左大臣・藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正らがつきました。

これを見るとわかるのですが、天皇家も藤原摂関家も源氏も平氏も、親兄弟が分裂して争いました。大河ドラマでも、一族同士で争う苦悩が描かれました。

結果的に、後白河天皇の側が勝利し、敗北した崇徳上皇は讃岐に流罪になります。父・為義は斬首されましたが、為朝は武勇を惜しまれて助命され、伊豆大島への流罪ということになりました。

しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆大島を事実上支配してしまいます。朝廷もさすがに黙ってはおらず、追討軍を出しました。このときも強弓で追討軍の船を沈めてしまうほどの勇猛ぶりを発揮します。それでも最後は力尽き自害。1170年、享年32歳でした。


滝沢馬琴によって読本化
今では源氏の悲劇のヒーローといえば源義経ですが、江戸時代では源為朝の人気もすごかったのです

この人気の火付け役となったのが、『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)。
『南総里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴が1811年に完成させた読本です。彼は、当時から伝わっていた為朝が琉球にわたったという伝説に『水滸伝』などを参考にして脚色し、アクションあり、美しい白縫姫(しらぬい ひめ)とのラブロマンスありの壮大な物語にしたのです。物語では為朝は白縫姫と結婚し、舜天が生まれます。これが後の初代琉球国王です。

朝廷の権威をもろともしない源為朝の勇猛ぶりに、江戸の庶民は酔いしれました。源義経も奥州で死亡せず、モンゴルにわたってジンギスカンになったという伝説が生まれましたが、こちらも同様。日本人は敗軍の将にホロッと来ちゃうようですね。Chinsetsu.jpg

この読本のヒットにより、葛飾北斎や歌川国芳らによって浮世絵も多数作られました。こうした動きは、マンガがヒットすれば、アニメ化、ドラマ化、舞台化と広がっていく現代と同様です。

さて、『椿説弓張月』は今では歌舞伎の演目になっていますが、実際に舞台化されたのはつい最近のこと。しかも、あの三島由紀夫によって舞台化されました。このとき、美しい白縫姫を演じたのは、当時は無名だった坂東玉三郎。三島の肝入りで抜擢された玉三郎の見目麗しさは絶賛され、今日に続く人気の足掛かりとなったのです。


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