2024年09月17日

長い年月をかけてよみがえる平城宮跡

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かねてより行ってみたいと思っていた奈良県の平城宮跡に、ついに行ってきました。写真は1998年に復元された
朱雀門です。

「なんと(710年、南都)ステキな平城京」。710年に藤原京から大和国に遷都。794年、京都の平安京に遷都するまでの84年間、古代日本の都がここだったのです。そして、歴史的に「奈良時代」と呼ばれています。

その後、京都・平安京は1000年を超える都として繁栄した一方、パイセン格である奈良の平城京さんはすっかり影が薄くなってしまいます。すでに9世紀の頃には農地になってしまい、長らく忘却の彼方となっていました。


●平城宮跡地整備までの長い歴史
◎江戸時代
・江戸時代の末、奉行所の役人であった北浦定政が自力で平城京の推定地を調査。水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、「平城宮大内裏跡坪割之図」にまとめた。

◎明治時代〜大正時代
・関野貞、喜田貞吉などによる研究がおこなわれ、奈良時代の都の姿が次第に明らかにされる。
・棚田嘉十郎や溝辺文四郎など地元の人々を中心に「平城宮址保存会」「奈良大極殿址保存会」が設立される。

◎昭和時代
・昭和34年(1959年)奈良文化財研究所による継続的な発掘調査が開始される。
・昭和53年(1978年)「平城宮跡保存整備基本構想」が策定。その後の保存整備はこの基本構想を指針として進められる。

◎平成時代
・平成10年(1998年)朱雀門、東院庭園の復原が完成。
・同年、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録される。
・平成20年(2008年)平城宮跡を国営公園として整備することが閣議決定される。
・平成22年(2010年)第一次大極殿の復原が完成。平城遷都1300年祭開催。
・平成30年(2018年)平城宮跡管理センターを開設、「朱雀門ひろば」が開園。

◎令和時代
令和4年(2022年)大極門(第一次大極殿院南門)の復原が完成。


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これが平城宮のパノラマ風景。奥に見えるのが朱雀門です。見事に何もありません。ただ、忘却され埋もれていた跡地をよくここまで戻したものです。上記にある通り、長い長い年月をかけて発掘・保存してきた情熱に感動します。


●平城宮跡の全景
朱雀門周辺も十分広いですが、これは平城宮跡の一部にすぎません。朱雀門をくぐると、広大な跡地が広がっており最深部には第一次大極殿(2010年復元)があります。

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途中に線路が見えますね。これは近鉄奈良線。開設したのは1914年と古く、当時からここが平城宮跡であったことは明らかになっていましたが、世間の注目も薄く、ここに敷設しても長らく問題視されませんでした。ただ、保全活動が本格化した現在、移設し地下化することが検討されています。

今後も復元計画は続いていく平城宮跡。奈良の都が火の鳥のようによみがえることに期待がふくらみます。


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2023年03月03日

江戸時代に飛来したUFOか? 「不思議ワールド うつろ舟」に行ってきた!

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NHKなどに取り上げられ、一部の界隈で話題騒然になっている「不思議ワールド うつろ舟」(常陽史料館、茨城県水戸市)に行ってきました。

月刊「ムー」(学研)も取り上げてます。

おやっ? ムーの名前を出したとたん、「こいつうさんくせー、なんか嘘くせー」という顔になりましたね。無理もありません。「トランプ元大統領は火星人だ!」とか、「ピラミッドは宇宙転送装置だ!!」なんてことを、大真面目に特集している雑誌です。まともなはずがありません。

ですが、今回の企画展は怪しさを超えて歴史浪漫を感じるミステリーなのです。

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江戸時代、常陸国の鹿島灘(現茨城県神栖市)に見たこともない形の舟が漂着。古文書に描かれたその形状はまるでUFO(トップ画像)。さらに、外装には読めない文字が書かれていました・・・。

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舟に恐る恐る近づく漁民たち。すると、中から長身色白の美女が、箱を持って現れました。仰天した漁民たちは、お上に報告。この事件を記録した古文書が茨城県内で複数見つかっているとのこと。

果たしてうつろ舟は宇宙船なのか、女性は異星人なのか?

どうです。興味をそそられませんか? 企画展は3月19日(日)まで。
土日はかなり来場者が多いそうです。なんだ、やっぱりみんなUFO大好きなのね ( ^ω^ )


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2022年11月14日

紅葉映える高野山を来訪!

弘法大師 空海が開いた日本仏教の聖地、そして世界遺産の高野山 金剛峯寺を来訪。今はまさに紅葉が絶景のシーズンでした!
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広大な山内は荘厳な雰囲気が満ちており、どこを撮っても映えます。

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弘法大師が入定(にゅうじょう)されている聖地「奥之院」までの参道には、超メジャーな大名の墓石が多数置かれています。写真下は武田信玄,、勝頼親子の墓です(※武田神社、恵林寺など複数ある墓所のひとつ)。
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宗教施設なので適切な表現じゃないかもしれませんが、ここはまるで「テーマパーク」。実際に和歌山県高野町というひとつの町を形成し、小学校から大学まで存在します。
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加えて、どの施設も観光客慣れしています。標高900m以上の所に位置していますが、携帯もWifiも問題なし。多言語化も進んでおり、外国人観光客もストレスフリーでしょう。816年に空海が高野山を賜ってからすでに1200年! これこそ蓄積と余裕が成せる業でしょうか!


写真下は高野山のシンボル壇上伽藍の根本大塔。48.5mもあり、写真で見るよりはるかに巨大な迫力がありました。

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山内の寺院は100以上あり、宿坊も兼ねています。ただし、1泊1万〜2万円以上とどれも高め。精進料理や座禅など貴重な体験がプラスされていると考えるのがいいでしょう。なお、寺院ではなく民間が運営しているゲストハウスもあり、それらはリーズナブルで泊まれます。
熊野古道の参詣をセットで考えている人は、宿坊を拠点にして移動するのが便利です。


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2021年10月24日

『おくのほそ道』の出発地、千住宿

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上の写真のスポットは、京成電鉄 千住大橋駅からすぐのところにあります。奥に写っているのが隅田川に掛かっている千住大橋で国道4号(通称:日光街道)が通っています。
そして、手前にあるのが『おくのほそ道』の出発地「矢立初めの地」を表す碑です。

元禄2(1689)年、松尾芭蕉は深川の芭蕉庵を引き払い、船に乗ります。そして隅田川を移動し、3月27日に千住大橋で下船しました。
千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」

是を矢立の初として、行道なお進まず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。


●現代語訳
千住というところで船をおりると、「これから三千里の旅が始まるのか」という思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかないこの世の分かれ道での別れに涙を流す。

春が過ぎ去ろうとしているところに、旅立つ別れを惜しんでいたら、鳥たちは悲しそうに鳴き、水の中の魚も涙をためている感じがした。 より悲しみが沸き上がってくる。

この句を「矢立の初め」、つまりこの旅の最初の吟とはしたものの、後ろ髪を引かれて足が前に進まない。見送りの人々は道の真ん中に立って、後ろ姿がみえなくなるまで、見送ってくれた。

ちなみに、このスポットからは階段で、下にある隅田川沿いの遊歩道に降りられます。そこに描かれている絵がこちら。
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さらに国道4号の反対側に行き、隅田川を背にして北へ5分程歩くと芭蕉像があります。壁に書かれているように、この一帯は江戸時代には千住宿(せんじゅしゅく)と呼ばれ、日光東照宮まで続く「日光街道」および奥州街道の最初の宿場町として発展しました。
加えて板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)、品川宿(東海道)ともに江戸四宿(えど ししゅく)のひとつに数えられた重要宿場町です。
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senju04.JPG右は芭蕉像を正面から見た写真です。筆を持ってますよね。この筆や墨を一組として収めた携帯用の筆記用具を「矢立」(やだて)と呼びました。

「矢立初めの地」とは、矢立を初めて使った場所。つまり千住が『おくのほそ道』執筆の出発地であったことを意味するわけです。


●もうひとつの芭蕉像
さて、芭蕉像は実はもう一つ存在します。それは隅田川を渡って南にずっと行ったところ、JR南千住駅の前です。これは「千住論争」が関係しています。

芭蕉たちが千住大橋の北側で下りたのか、南側で下りたのかは記録に残していないため不明です。北側も南側も同じ「千住」ですし、彼らにとっては重要なことではなかったからでしょう。ところが、そこをハッキリ記してくれなかったことで300年後である今日、ひとつの論争を生むことになります。

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なんと現在は千住大橋の北側は足立区、南側は荒川区と行政区が異なっているのです。そしてこの2区双方が「ウチこそが矢立初めの地だ!!」と主張しているのです。

左の写真が南千住駅前の芭蕉像。こちらも矢立を持っていますね。心なしか、「ワイが本家やで!」と主張しているようにも感じます (;^ω^)

ただ実際のところ、「千住論争」がヒートアップしていたのは何十年も前の話。今では同じ「千住」、同じ「矢立初めの地」としてお互い協力する方向に変わっているように感じます。

ぜひ芭蕉が残してくれた貴重な遺産を活かして、どちらも地元を盛り上げていってほしいですね。




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2021年08月26日

松尾芭蕉『おくのほそ道』年表

matsuo_basyo.jpg『おくのほそ道』(奥の細道)は俳人 松尾芭蕉が東北・北陸を巡った旅行記です。崇拝する西行の500回忌にあたる1689(元禄2)年春に、門人の河合曾良を伴い江戸を発ちました。

●江戸、深川芭蕉庵(現東京都江東区)
芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払います。
「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」


●千住(現東京都荒川区/足立区)
3月27日明け方、舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠みます。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
 ・『おくのほそ道』の出発地、千住宿

●日光(現栃木県日光市)
4月1日
「あらたふと 青葉若葉の 日の光」


●黒羽、雲巌寺、光明寺(現栃木県大田原市)
4月4日、黒羽を訪れます。
4月5日、雲巌寺に禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ねます。
「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」

4月9日、光明寺に招かれて行者堂を拝します。
「夏山に 足駄を拝む 首途哉」


●那須の温泉神社、殺生石(現栃木県那須町)
4月19日、温泉神社に那須与一を偲び、殺生石を訪ねます。
「野を横に 馬牽むけよ ほととぎす」


●白河の関(現福島県白河市)
4月20日、「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」


●飯塚の里(現福島県福島市)
5月2日、飯坂温泉に宿泊しました。
「笈も太刀も 五月に飾れ 紙幟」


●多賀城(現宮城県多賀城市)
5月4日、壺の碑(多賀城碑)を見て「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と涙をこぼしました。


●松島(現宮城県松島町)
5月9日、芭蕉は絶景に感動したあまりすぐに句が浮かばず、代わりに曾良の句を文末に置きました。
「松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」(曾良)

一応、芭蕉本人も「嶋々や 千々にくだけて 夏の海」という松島の句を作っており、『蕉翁句集』に収められています。
また、「松島や さて(ああ)松島や 松島や」という句を芭蕉が詠んだという逸話が有名ですが、これは江戸後期の狂歌師 田原坊の作です。地元でも勘違いしている人がいるほど庶民に広がった逸話です。


●平泉(現岩手県平泉町)
5月13日、藤原3代の跡を訪ねて「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」と述べ、
また杜甫の詩「春望」を踏まえて、「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と詠みました。
「夏草や 兵どもが 夢のあと」
「五月雨の 降り残してや 光堂」
 ・世界遺産 平泉に行ってきました 〜中尊寺


●尿前の関(現宮城県大崎市)
南下して出羽の国(秋田、山形両県)へ向かいます。5月14日、仙台藩の関所「尿前(しとまえ)の関」を通過し、山越えの厳しさに直面します。
「蚤虱 馬の尿する 枕もと」


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2021年04月06日

殿様知事

都道府県知事は、人事から事業承認にいたるまでほとんどの最終決定権を持っており、まさに現代の「殿様」といえます。志あるものはやはり知事に憧れるものだと思います。さて、本当に殿様(大名)の子孫が知事になった「殿様知事」は、現行の公選知事制度において6人います。以下、見てみましょう。


福島県知事 松平勇雄(まつだいら いさお、1907年〜2006年)
第10〜12代知事(3期就任:1976年9月〜1988年9月)
早稲田大卒。三菱商事、参議院議員などを歴任。

「新選組」でお馴染みの会津藩主松平容保(まつだいら かたもり、写真右)の孫。
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秋田県知事 佐竹敬久(さたけ のりひさ、1947年〜)
第17〜20代知事(4期就任:2009年4月〜現職)
東北大卒。秋田県庁職員、秋田市長などを歴任。
久保田(秋田)藩主佐竹家の分家・佐竹北家の21代当主であり、現職では唯一の「殿様知事」

戦国時代に佐竹義重(鬼義重)が常陸国を統一し佐竹氏全盛期を達成。しかし、関ヶ原の戦いで息子の
佐竹義宣(さたけ よしのぶ、写真右)は東軍、西軍のどちらに付くともいえない曖昧な態度を示し、これが家康の怒りを買い、久保田藩に移封。義宣は久保田藩初代藩主になります。
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千葉県知事 加納久朗(かのう ひさあきら、1886年〜1963年)
第3代知事(1期就任:1962年11月〜1963年2月、在職4ヶ月で急死)
東大卒。横浜正金銀行、住宅公団総裁などを歴任。

一宮藩最後の藩主加納久宜(かのう ひさよし、写真右)の子。
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愛媛県知事 久松定武(ひさまつ さだたけ、1899年〜1995年)
第2〜6代知事(5期就任:1951年5月〜1971年1月)
東大卒。三菱銀行、貴族院議員、参議院議員などを歴任。
知事時代に特産品のミカン栽培の振興に注力し、日本一(ニッポンイチ)のジュースになるようにという意味をこめて「ポンジュース」と名付けました。

松山藩主久松家の嫡流で、久松定謨(ひさまつ さだこと、写真右)の子。定謨はフランスに留学し、サンシール陸軍士官学校を卒業。そのとき、お付で渡仏したのが『坂の上の雲』でお馴染みの秋山好古でした。
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佐賀県知事 鍋島直紹(なべしま なおつぐ、1912年〜1981年)
第2〜3代知事(2期就任:1951年4月〜1959年4月)
九州大卒。農林官僚、佐賀県森林組合長などを歴任。

佐賀藩の支藩である鹿島藩主鍋島家の第15代当主。佐賀藩最後の藩主鍋島直大(なべしま なおひろ、写真右)の孫。
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熊本県知事 細川護熙(ほそかわ もりひろ、1938年〜)
第10〜11代知事(2期就任:1983年2月〜1991年2月)
上智大卒。朝日新聞、参議院議員、衆議院議員(後に首相)などを歴任。

細川忠興とガラシャ夫人の子である熊本藩初代藩主細川忠利(ほそかわ ただとし、写真右)の末裔。その凄すぎる血筋については以下。
藤原氏 ― 1300年間、日本の上流で踏ん張っている「超名門」
日本版ダ・ヴィンンチ、細川幽斎
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