2017年09月08日

「フリーメイソン」のガチャ発見!?

freemason_gacha.jpg先日、都内を歩いていたら、なんと「フリーメイソン」のガチャを発見し驚愕しましたΣ(゚Д゚; あの有名な「定規とコンパス」によるシンボルマークまであります。


フリーメイソン
16世紀後半にヨーロッパで誕生した、石工職人のギルドを起源とした秘密結社。裏から世界を操ってきたと言われ、陰謀論マニアは狂喜乱舞して話題にする謎の集団。

ゲーテ、モーツァルト(フリーメイソンのための作品を10曲も書いた)、ベートーベン、マッカーサー、鳩山一郎など、会員だったと言われる著名人多数。なお、最近はYes高須クリニック!の高須克弥氏が会員になったことが話題になりました。


……それにしてもマジか? 秘密結社も最近はガチャを販売する時代なのか? 新たな資金源なのか?(お金には困ってないだろうに……)

あまりに気になって夜も眠れなかったので、調べてみたら非公認の企画であることがわかりました。

……ですが、もしかしたら。もしかしたら、これも彼らの「黒い計画」のひとつなのかもしれません。


フリーメイソン 秘密結社の社会学(小学館新書)

新品価格
¥924から
(2021/8/7 04:58時点)


posted by すぱあく at 04:00| ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

オランダ人にとって特別なオレンジ色

2014ワールドカップ ブラジル大会が開幕しました。これから2週間は寝不足必至の方も多いのでは。
6月14日の4:00から前大会決勝のスペイン VS オランダという好カードが行われ、サッカーファンは熱狂したことと思います。タレント不在と言われていたオランダでしたが、5得点の大爆発。これだからワールドカップは凄いんだよなぁ。

Bergkamp.jpgさて、オランダ代表のユニフォームは基本的にオレンジ色です。クライフのときも、ベルカンプのときも、今のロッベンもそうです。なぜオレンジ色なのか? それはオランダ人にとって、オレンジ色は民族の根幹に関わるほど重要な色だからです

オレンジのことをオランダ語ではオラニエといいます。元々、南フランスにオラニエという地方があり、それが12世紀頃から神聖ローマ帝国の小さな公国になりました。
ところが、オラニエ公には跡継ぎがいなかったため、今のオランダ当たりにいた親戚が跡継ぎになります。その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれ、「オラニエ公=オランダ」というイメージが定着しました。ちなみに、今のオランダ王室もオラニエ=ナッサウ家です。
 ・世界のロイヤルファミリー


WilliamOfOrange1580.jpg代々オラニエ公というのはたくさんいましたが、オランダ人にとっての民族的英雄と思われるのはオラニエ公ウィレム(ウィレム1世、1533年〜1584年)でしょう。

当時、オランダやベルギー当たりの地域はネーデルラントと呼ばれていました。ネーデルラントは、1477年にハプスブルク家の領土となります。その後、ハプスブルク家は婚姻関係によってスペイン国王も兼務。強大な軍事力で、ネーデルラントに圧制を敷きました。
 ・さかのぼりスペイン史5 太陽の沈まない帝国
 ・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(前編)



●オランダ独立戦争
スペインの圧制に反対するネーデルラントの市民は、1568年オラニエ公ウィレムを中心に団結し、独立戦争を開始します。
1579年、北部ネーデルラント7州はユトレヒト同盟を結成し、1581年にはネーデルラント連邦共和国の独立を宣言します。このとき以来、北部の有力州だったホラント州にちなみ、外国からは「オランダ」と呼ばれるようになりました。
さらに、この頃からオラニエ=ナッサウ家を象徴する色彩としてオレンジ色が使われるようになりました

独立以後も、それを認めようとしないスペインとの戦争は続きます。軍事力でオランダは劣勢でしたが、スペインもオランダだけを相手にするわけには行かない事態になります。カトリックとプロテスタントの宗教戦争がヨーロッパ全土に飛び火し、1618年から三十年戦争が勃発したのです。

この混乱の中でスペインの勢力拡大を阻止したいイギリスがオランダを支援し、ついに停戦にまで持ち込みます。そして1648年、三十年戦争の講和条約であるウエストファリア条約(ヴェストファーレン条約)の中にオランダ独立も盛り込まれ、国際的にもスペインからの独立を果たしました。ちなみに、この独立戦争は80年間にわたって行われたので、八十年戦争とも呼ばれています。
 ・さかのぼりスペイン史4 斜陽の帝国
 ・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(中編)

スペイン VS オランダ。かつて独立をかけて戦った国同士。そしてオレンジ色。サッカーの試合でもその想いを重ねている国民は多いでしょう。


★関連記事
<FIFAワールドカップ関連>
・2002年日本・韓国 経済効果(中国語)  バットマン宮本恒靖
・2010南アフリカ ワールドカップに見る宗主国と植民地の関係
・2014年ブラジル オランダ人にとって特別なオレンジ色
・2018年ロシア 中国企業のスポンサー料は約900億円


オラニエ公ウィレム?オランダ独立の父

中古価格
¥13,234から
(2020/5/8 15:31時点)


posted by すぱあく at 06:00 | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

正教会6 荘厳なイコンの下で祈る

正教会シリーズも今回が最終回。締めくくりとして、正教会の特徴について触れておきたいと思います。

★指示系統について
正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本です。
 ・ロシア正教会         ・ルーマニア正教会
 ・ギリシャ正教会        ・ブルガリア正教会
 ・セルビア正教会        ・グルジア正教会
 ・日本ハリストス正教会など

各教会はコンスタンディヌーポリ総主教を象徴的に首位としていますが、基本的に独立して運営しています。そのあたりが「フランチャイズ方式っぽい」です。

こうした運営形態になったのは、今まで見てきたように歴史的な背景があります。
東ローマ帝国滅亡後は、ギリシア世界はイスラームのオスマン帝国に支配されてきました。
コンスタンディヌーポリ総主教はイスラームの監視下にあり、カトリックのように教皇が絶大な権限で各教会に指示を出すことが不可能になったことが大きいと思います。

しかし、各教会は運営形態が独立しているだけで、教義の違いから分派したわけではありません。どの教会も正教として同じ信仰を持っています。
ですから「正教会に改宗」は正解ですが、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りです。

★表記について
歴史的にギリシャ、ロシアで発展したため、ギリシャ語、ロシア語の読み方がなされます。
 イエス・キリスト→→→イイスス・ハリストス ※ハリストス教会って「キリスト」の意味だったんですね

icon2.jpeg★イコンについて
たいてい正教会の教会には荘厳なイコンがあります。日本のニコライ堂にもイコンがありました。
イコンもギリシャ語由来の言葉で「聖像」という意味です。パソコン用語でよく出てくる「アイコン」はこのイコンが語源だとか。

正教会では、イコンを描く画家については厳格な規定を設けました。イコンを描くことは神に近づく道のひとつであり、イコンを見る他の信者を神に導く道と考えました。
画家は伝道者の一種であるとされ、正教徒以外の者が聖像を描くことは認められませんでした。


これで正教会シリーズも終わりです。
お時間があれば、ぜひニコライ堂を散策してみてください。
ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月25日

正教会5 東西教会を徹底比較

以下、東西教会を比較してみました。
東/西正教会(東方教会)カトリック(西方教会)
通称ギリシャ正教ローマ・カトリック
信者数約1億6000万人約10億人
教主コンスタンディヌーポリ総主教ローマ教皇
現教主ヴァルソロメオス1世Bartholomew.jpgベネディクト16世Benedictus.JPG
総本山聖ゲオルギオス大聖堂(トルコ共和国)

geo.jpg

サン・ピエトロ大聖堂(バチカン市国)

pietro.jpg

主な布教地域旧ソ連諸国、ブルガリア、ルーマニア、新ユーゴ連邦、ギリシャ、エチオピア 南欧、東欧、クロアチヤ、 アイルランド、リストニア、フィリピン、中南米
指示系統フランチャイズ方式っぽいトップダウン方式っぽい



信者数
正教会の信者数が約1億6000万人なのに対し、カトリックは約10億人と圧倒的な差が開いています。
正教会が中世から近現代にかけて苦難の連続だったことに対し、カトリックは大航海時代、産業革命、西欧列強の進出を経て爆発的に拡大しました。
ちなみに、正教会の信者がもっとも多い国はロシアで9000万人います。これは正教会全体における56.2%にあたります。


教主
ローマ教皇はよくニュース報道で登場しますので日本人でも知っている人がいますが、コンスタンディヌーポリ総主教の存在は知らない人がほとんどでしょう。ただ、カトリックと違い、巨大な権限で全世界に指示を出すといったことはしません。あくまで象徴的な中心です。


総本山
トルコのイスタンブルにコンスタンディヌーポリ総主教庁があり、主な庁舎が聖ゲオルギオス大聖堂です。オスマン帝国に支配されて以降、イスラームの監視下でやってきて、今もなおその状態にあることに驚かされます。


指示系統
これについては次回のエントリで述べようと思いますが、各国の正教会は基本的には独立しており、ゆるやかな連合体になっています。現代的にわかりやすくいうと「フランチャイズ方式っぽい」かな。


東西教会の和解に向けた動き
1054年に相互破門によって、東西教会は決定的な分裂をしましたが、近年になってようやく和解に向けた動きが出ています。
その一歩として、1964年にコンスタンディヌーポリ全地総主教アシナゴラス1世とローマ教皇パウロ6世がエルサレムで会談しました。そして、1965年、ローマ教皇パウロ6世によって「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表され、続いて正教会側もイスタンブルで同様に発表し、長きにわたって続いていた相互破門状態が解消されました。その後、完全な和解とはいかないまでも交流は少しずつ拡大しています。


★関連記事
正教会1 ニコライ堂に行ってきました
正教会2 原始キリスト教の流れを汲む歴史の生き証人
正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
正教会4 東西教会の分裂後に続く苦難の道
正教会5 東西教会を徹底比較
正教会6 荘厳なイコンの下で祈る
ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム

キリスト教は4世紀初め、コンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされます。

ところが、ローマ帝国は395年に東西に分割された後、476年に西ローマ帝国が滅亡します。これによりローマを中心としたキリスト教社会(後のカトリック)は、後ろ盾を失います。

sophia.jpg一方で、コンスタンティノープル(現トルコ・イスタンブール)を中心としたキリスト教(後の正教会)は、東ローマ帝国の国教とされ隆盛を極めます
537年ユスティニアヌス帝によって再建された
アヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)は、「コンスタンティノポリス総主教庁」として東側キリスト教(後の正教会)の総本山となり、また東ローマ帝国諸皇帝の霊廟として用いられました。
 ★関連記事 ・『大旅行記』レビュー 聖ソフィア大聖堂を説明する ― 14世紀にイブン・バットゥータも来訪

このようにキリスト教は、東西で明暗がハッキリと分かれてしまいます。そのうちに両教会ともしだいに交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈、礼拝方式、教会組織のあり方、司祭の妻帯可否などで差異が拡大していきます。


●西方教会も黙っちゃいなかった
さて、西のローマ側もだまって指をくわえていたわけではありません。なんとか世俗社会の後ろ盾を得ようと画策します。そこで800年に、ローマ教皇レオ3世はカロリング朝フランク王国のカール大帝に戴冠し、「ローマ皇帝」の称号を与えます。これは古代ローマ皇帝の継承者を意味し、最高の栄誉でした。もちろんタダではありません。見返りに、教皇(後のカトリック)を保護しなさいよ、ということです。

当然のことながら、東ローマ帝国側はカール大帝が「ローマ皇帝」であることを認めるわけありません。「皇帝称号の僭称にすぎない」と見なしました。しかし、この戴冠によって西ヨーロッパが宗教的にまとまるキッカケとなり、ようやく東側(東ローマ帝国&後の正教会)に対抗する足がかりを得たのです


●神聖ローマ帝国の成立
ローマ教皇が戴冠して世俗の最高権力者である「皇帝」を任命し、「皇帝」はローマ教皇を保護する。西ローマ帝国滅亡以降、ぐらついていたヨーロッパ社会はこの相互補完システムでようやく安定し始めます。

そして962年、東フランク王国のオットー1世による戴冠で誕生したのが神聖ローマ帝国でした。相互補完システムの完成状態といえます。
 ★関連記事 ・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(前編)

この頃には、すでに西(カトリック)と東(正教会)のキリスト教は似て非なるものになっていました。そして、1054年に分裂は決定的なものになるのです。その話は次回で。


★関連記事
正教会1 ニコライ堂に行ってきました
正教会2 原始キリスト教の流れを汲む歴史の生き証人
正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
正教会4 東西教会の分裂後に続く苦難の道
正教会5 東西教会を徹底比較
正教会6 荘厳なイコンの下で祈る
憧れのバチカン
フランス史 年代別記事一覧  ・中央ヨーロッパ史 年代別記事一覧


FAKAINU バスマット 風呂マット ヨーロッパの中世聖ソフィア大聖堂トルコ教会の建物 足拭きマット 吸水 速乾 滑り止め 浴室 洗面所 脱衣所 風呂 台所 キッチン玄関マット(45x75cm)

新品価格
¥1,999から
(2020/4/25 15:46時点)




図説 神聖ローマ帝国 (ふくろうの本/世界の歴史)

中古価格
¥3,982から
(2020/4/25 15:33時点)


ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 08:26 | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

正教会2 原始キリスト教の流れを汲む歴史の生き証人

前回のエントリで紹介した「ニコライ堂」は、日本ハリストス正教会の本山です。

そもそも正教会って何なんでしょうか。宗教に関心の薄い日本人にとっては、“キリスト教の一派”程度の理解しかなく、古いのか新しいのかもよくわかりません。

「カトリックなんですか?」「プロテスタントなんですか?」と聞くのがやっとです。
正解をいうと「カトリックでもプロテスタントなく、正教会は正教会」です。

そもそも、高校世界史の教科書が誤解を生みかねない構成になっています。
一般的に「正教会」の記述が出てくるのは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の項のあたりからで、時代が下ると、「ギリシア正教」「ロシア正教」といった記述も出てきます。
これだけ見ると、東ローマ以降にカトリックから分派した一派なのかな、と思ってしまっても仕方がありません。

正教会側の主張はその逆。原始キリスト教に近い状態で現代に伝えているのが正教会で、教義の違いで分裂したのがカトリック。そのカトリックから宗教改革の流れの中で分派していったのがプロテスタント諸派としています。わかりやすく図にするとこんな感じ。
crist.jpg

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを中心に栄えた正教会は「東方教会」と呼ばれることがあり、、ローマを中心としたカトリックを「西方教会」と呼んで区別するときがあります。

キリスト教は、ある日突然に「東西」に分裂したわけではありません。大きな原因はローマ帝国が東西に分裂して以降、地域によって文化や風習がかなり違っていったことが背景にあります。キリスト教もしだいに、教義や礼拝の方法、神職などに隔たりが大きくなり、ついには分裂に至るというわけです。

次回からその当たりに迫っていきます。


★関連記事
正教会1 ニコライ堂に行ってきました
正教会2 原始キリスト教の流れを汲む歴史の生き証人
正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
正教会4 東西教会の分裂後に続く苦難の道
正教会5 東西教会を徹底比較
正教会6 荘厳なイコンの下で祈る
ラベル:キリスト教
posted by すぱあく at 09:18| Comment(0) | TrackBack(0) | ヨーロッパ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする