2012年03月11日

デリーのクトゥブ・ミナールについて説明する

ktv.JPG1333年イブン・バットゥータは中央アジアを抜けて
トゥグルク朝インドのデリーに到着し、このデリーに8年間滞在することになります

そして、現在のニューデリー郊外にそびえる世界遺産
クトゥブ・ミナールについても述べています。

東洋文庫『大旅行記4』346頁〜
モスクの北側の広場には、イスラム諸国では他に類を見ないひとつのミナレットがある。それは、モスクの他のすべての部分の石とは違って、赤色の石で建てたものである。なぜならば、一般にミナレットは、すべて白い石でできているからである。しかも、そのミナレットの石には、文字が彫りこまれている。それは天を突くようにそびえ、ミナレットの塔頂に載せた装飾物、相輪は白亜に輝く大理石で造られ、そのリンゴ状の球体部(宝珠)は、純金製である。

その通路の幅は、象がそこを登っていけるほどの幅である。信頼できる人が私に語ったところによると、それが建設された当時、象が石を運んでその天辺に登っていくのを、実際に見たという。

●解説
クトゥブ・ミナールは、奴隷王朝(1206〜1290年)のスルタンだったクトゥブウッディーン・アイバクが、ヒンドゥー教に勝利したことを記念して1200年頃に建立しました。現在は72.5mですが、当時は100mの高さでした。
ちなみに外壁には、イスラムの聖典『コーラン』が刻まれています。


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2012年01月23日

チャガタイ・ハン国スルタンに謁見する

pax-mongolica.jpg中央アジアに栄えたチャガタイ・ハン国。イブン・バットゥータはここを通って、さらにインドを目指しました。チャガタイ・ハン国もモンゴル帝国から分化した国です

イブン・バットゥータは、西チャガタイ・ハン国のスルタンであるタルマシリンに謁見しています。本当に多くの為政者に謁見していますね。とんでもないことです。

東洋文庫『大旅行記4』174頁〜
ある日のこと、私はいつもの習慣通りにモスクで朝の礼拝を行うために出掛けた。礼拝が終わると、住民のある人が私に、スルタン(タルマシリンのこと)がそのモスクにおられると教えてくれた。そこでスルタンが礼拝を終えて立ち上がったときに、私は彼のところに進み出て礼拝した。
そのとき、シャイフ=ハサンが、法学者フサーム・ウッディーン・アルヤーギーと一緒に立ち上がった。その二人は、私の身分のことや数日前に私が到着したことなどをスルタンに伝えた。
するとスルタンは私に向かってトルコ語で「フシュ・ミースィン・ヤフシー・ミースィン・クトルー・アユースィン」といった。「健康はどうだ?汝が来られたことは大変よろこばしいことだ」という意味である。そのときの彼は、緑色のクドスィー製の外套を羽織り、彼の頭にはそれと同じ織物の半球帽をかぶっていた。

その礼拝の後、いつも彼は自分の謁見室に戻っていくのであるが、一般の人々は彼に対してさまざまな苦情を訴えていた。彼は身分が低いものでも高いものでも、また男女誰でも苦情のあるものひとりひとりのために誠心誠意尽くすのが常である。

●時代背景
チャガタイ・ハン国は、チンギス・ハンの次男チャガタイを始祖にしていますが、彼が建国したわけではありません。
1306年、チャガタイの4代後の子孫で10代当主のドゥア(wikipedia)のときに、チャガタイ・ハン国として大きくなりました。

しかし、1326年、第15代当主のケベクが死去したときに東西に分裂してしまいます
東チャガタイ・ハン国の初代君主はイルジギディ。
西チャガタイ・ハン国の初代君主がタルマシリンでした。


●解説
samarkando.jpgイブン・バットゥータはタルマシリンの宿営地に54日間滞在します。
その後、サマルカンドにも訪れています。しかし、当時は内乱のため、廃墟になっていたことが『大旅行記』にも記されています。

サマルカンドの復興は、ティムール朝の首都になってからです。
英雄ティムールは、後に西チャガタイ・ハン国で生まれ、台頭してくるのです


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2012年01月22日

聖ソフィア大聖堂について説明する

sophia.jpgイブン・バットゥータは『大旅行記』の中で、コンスタンティノープル(現・トルコ共和国イスタンブール)の代名詞であるアヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)についても述べています。

東洋文庫『大旅行記4』72頁〜
われわれは、その教会堂の外側だけについて説明するとしよう。その内部については、私はそれを実際に見ていないからである。そこは、彼らによると「アヤ・ソフィア」と呼ばれ、伝えるところでは、バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる。そこはルームの最大の教会のひとつであり、その周囲を塀が取り囲み、まるでひとつの町のようである。

教会の門は13あり、そこには1マイルほどの聖域があり、ひとつの大きな門によって囲まれている。誰でもその聖域内に入れる。そこはちょうど、謁見用の広間に似ており、大理石が張られ、教会から出た水路がそこを流れ、その水路のところの両端には1ズィラーほどの高さのふたつの仕切り壁が付いてその間を水が流れている。その仕切り壁は精緻を極めた彫刻の施されたモザイク状の大理石で造られ、水路の両岸には樹木が整然と植え込まれている。

中略

教会の入口のところに教会の雑務係たちが座る屋根付き柱廊があって、彼らは教会の中の道路を清掃したり、街頭を灯し、諸門を閉めたりする。彼らはその内部に入ろうとするものに対して、彼らのもとにある巨大な十字架に平伏するまで誰一人として入ることを許さない。その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である、と彼らは主張している。その十字架は教会の門のところにあって、長さ10ズィラーゥほどの黄金製の棺箱に納められ、さらにその上にも同じように黄金の棺箱をはめ込んで、その棺箱が十字架になるように造られている。

●解説
文中では聖ソフィア大聖堂は、「バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる」とあります。これを歴史的事実と異なります。

歴史的事実では、聖ソフィア大聖堂は360年にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世によって建立されました。つまり、イブン・バットゥータの来訪よりも1000年も前のことです。

しかし後年、聖ソフィア大聖堂は戦乱で消失してしまいます。それを再建しようとしたのが、ユスティニアヌス1世です。そして、537年12月27日に改築は完成します。
このときユスティニアヌス帝は、ソロモン王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから
「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだといわれています。
そのとき、古代イスラエル王国ソロモン王の宰相として名高かった「アーサフ」の名前もこの発言時に登場します。

以上のように、かつての伝説がごっちゃになり、聖ソフィア大聖堂はアーサフが設計したというふうにイブン・バットゥータは思ったと推測されています。


さて次に注目すべきは、「その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である」という記述です。
おやっ? エルサレムで処刑されたイエス・キリスト。その十字架がなぜコンスタンティノープルにあるのか?

それは、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが326年にエルサレムを訪れたことが理由です。
フラウィア・ユリア・ヘレナは、この来訪時に当時はヴィーナス神殿となっていた地をゴルゴタの丘と特定し、そこで十字架3つと聖釘などの聖遺物を発見したといわれています。そして、持ち帰ったのがこの十字架というわけです。


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2012年01月21日

東ローマ帝国皇帝に謁見する

『大旅行記』を読みますと、イブン・バットゥータはさまざまな国の為政者(スルタン、皇帝、王)への面会に成功しています。この事実が『大旅行記』をさらに超一級品の資料にさせています。そして、コンスタンティノープルではなんと東ローマ帝国皇帝に謁見しているのです。そんな簡単に偉い人に会えるもんなの? これはイブン・バットゥータの人徳によるものですかねぇ〜。

東洋文庫『大旅行記4』66頁〜
andro3.jpg皇帝の名前は、タクフール(アンドロニコス3世パレオロゴスのこと)であり、皇帝ジルジースの息子である。現皇帝の父帝であるジルジースは存命中であったが、俗界を去り、修道士となってひたすら祈りのために教会で禁欲的生活を送っており、王位は彼の皇子に譲っていた。

中略

その後、私が壮麗な円蓋堂に着くと、そこには玉座に座った皇帝がおられ、彼の面前には彼の皇后、つまりこのハートゥーンの母君が一緒におられた。玉座の下方にはハートゥーンが姉君と一緒に控えていた。また皇帝の右側には六人の男たち、左側には四人、背後には四人が付いて、いずれも彼らは武器を携帯していた。皇帝は、私の恐怖心を和らげようとのお心遣いからであろうか、私が礼拝してから彼の御前に進み出る前に、まずしばらくは座るようにとの合図をされた。そこで、私はその指示に従ってから、彼のもとに進み出て、立ったまま礼拝すると、彼は私に座るよう合図されたが、私はそれに従わずそのままで立っていた。

すると、彼は私にエルサレム、ベツレヘム、ダマスカス、エジプト、イラクなどについて尋ねられた。私がそれらのことすべてについてアラビア語で返答し、お付のユダヤ人が私と皇帝との間の通訳をしてくれた。私の言うことに皇帝はいたく満足されて、彼の皇子たちに向かって、「この方をくれぐれも丁重に扱い、身の安全を守るように」と言った。続いて、皇帝は私に記念の礼服を下賜され、また私のために鞍と馬勒の付いた馬一頭と王位にある者が頭上にかざす日傘を与えるよう命ぜられた。その日傘は、安全保護の印となるものである。私は、皇帝に毎日、町中を馬に乗って案内してくれる人を指名してくれるよう願い出た。それは、私が町の驚嘆すべきこと、その不思議なことを実際に眼で見て、それらのことを私の故郷で土産話として聞かせたいからであった。すると、彼はそのことで私のために案内人を選定してくれた。

●時代背景
ローマ帝国は395年に東西に分裂。西ローマ帝国は476年に早々に滅亡しますが、東ローマ帝国は1453年まで長く生き続けます

イブン・バットゥータのこの謁見は、推定で1333年とされています。この頃の東ローマ帝国はすでに斜陽の状態で内紛が絶えませんでした。

そして小アジアで台頭してきたオスマン帝国と何度も開戦しています。このオスマン帝国に最後は滅ぼされます。


●解説
単純ですが大事なことが載っています。イブン・バットゥータが普段話している言葉はアラビア語だということです。それをユダヤ人通訳が、おそらくギリシア語に訳して皇帝に伝えています。

皇帝の名前は「タクフール」とありますが、タクフールとは皇帝の称号を表すアラビア語で個人名ではありません。皇帝の個人名はアンドロニコス3世パレオロゴス(wikipedia)です。

アンドロニコス3世パレオロゴスの父親は、ミカエル9世です。本文には父親の名前はジルジースで、しかも存命で修道士になっているとあります。

これは歴史的事実とは異なります。ミカエル9世はこの出来事の14年前に死去しているからです。よって、文中のジルジースとは彼の祖父であるアンドロニコス2世(wikipedia)と思われます。

アンドロニココス3世は若い頃から素行が悪く、そのため祖父から遠ざけられていました。しかし、祖父に反旗を翻して帝位を奪い、無理やり出家させました。

よって、本文にある「ジルジースは存命中であったが、俗界を去り、修道士となってひたすら祈りのために教会で禁欲的生活を送っており、王位は彼の皇子に譲っていた。」というのは、アンドロニココス3世の陰謀によるものだったんですね。

イブン・バットゥータのコンスタンティノープル滞在は非常に短い期間だったので、おそらく宮殿内で起こっている陰謀までは知らなかったでしょう。


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2012年01月20日

キプチャク・ハン国スルタンに謁見する

pax-mongolica.jpg1333年、イブン・バットゥータはウクライナ一帯に広がるキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)のスルタンであるウズベク・ハン(wikipedia)に謁見しています。

東洋文庫『大旅行記4』34頁〜
彼の名前は、ムハンマド・ウーズバク(ウズベク・ハンのこと)である。「ハーン」の意味は、彼らによると「スルタン」のこと。このスルタンは王国の偉大なる主権者として強大な権力を持ち、威厳高く、比類なき高い地位にあり、そして神の敵対者たち、コンスタンティノープルの住民に対する勝利者、彼らへの聖戦に精励する人物である。

中略

宿営地ビジュ・ダグでの私の滞在は、スルタンの第二皇子ジャーニ・バグの保護の下にあった。私が到着した日の翌日、午後の礼拝の後に、私はスルタンのもとに赴いた。そのとき、すでにスルタンは、シャイフたち、法官たち、法学者たち、シャリーフたち、修行者たちを集めて、盛大な宴会を用意していた。

われわれはスルタンの前で、その日の断食の禁を解いた。サイイドであり、シャリーフたちの代理官であるイブン・アブド・アルハミードと法官ハムザが参列の人々に向かって私への賛辞を述べてくれたので、人々はスルタンに私を丁重に待遇するよう勧めた。

この後、数日してから私はスルタンと一緒に午後の礼拝を行った。私がモスクから立ち去ろうとすると、スルタンは私に座るように命じた。そして、まるでドゥーキーから造ったと思われるような各種のスープ、つづいて羊と馬の肉を煮たものが運ばれてきた。その夜、私はスルタンに一皿の砂糖菓子をもたらしたが、彼はそれに指で触れ、その指を口もとに置いただけで、それ以上のことはしなかった。

●時代背景
batu.jpgキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)はモンゴル帝国から分化した国のひとつです。
開祖はチンギス・カンの長男であるジョチになりますが、事実上、建国したのはその息子であるバトゥです。

キプチャク・ハン国建国の経緯はこうです。
ジョチの死後に家督を継いだバトゥは破竹の勢いでポーランド軍を蹴散らし、まさにヨーロッパへ乗り込もうとしていました。しかし、その矢先の1241年、モンゴル帝国皇帝であるオゴテイが急死してしまいます。
モンゴルの決まりでは、皇帝が死去したときは最高会議のクリルタイを開催して次期皇帝を決めなければなりません。バトゥはやむなく帰国することになります。

しかし、モンゴル本国では次期皇帝の座を巡って内紛が発生していました。バトゥは、モンゴルに戻っても内紛に巻き込まれるだけだと考え、1243年サライを都としたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国したという訳です。

小前亮氏がバトゥを主人公にした小説『蒼き狼の血脈』を書いています。チンギス・カンの末裔を主人公にした小説は日本ではまだ珍しいので、歴史ファンには嬉しい一冊です。


その後、モンゴル帝国は4つに分裂し内紛が発生します。しかし、1305年に休戦協定が結ばれ、「パックス・モンゴリカ」という平和の時代がやってきます。イブン・バットゥータのような旅行家や商隊にとって、ユーラシア大陸を横断するのに非常に好都合な時代だったのです


●解説
ウズベク・ハンはバトゥの玄孫であり、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)第10代当主(ジョチを初代とした場合)になります。彼の治世に同国は最盛期を迎えます。とくに、イスラームへの理解が深かったため、その後同国はイスラム化が顕著になっていきます。

ちなみに、文中にある第二皇子ジャーニ・バグ(wikipedia)は後に第12代当主になります。

なお、イブン・バットゥータがウズベク・ハンと謁見したのは首都サライではなく、ビジュ・ダグという軍営地でのことでした。


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イブン・バットゥータ『大旅行記』年表


以下が、イブン・バットゥータ『大旅行記』の年表で、このレビューのインデックスでもあります。
西暦は、東洋文庫『大旅行記1』415頁にあるものを参考にしました。
実際は、さまざまな矛盾がある(面会したとされる人物が、その年代だとすでに死去していた等)のですが、レビューではこの年表を用います。


●イブン・バットゥータの旅行図
ibn-battuta_map.gif


プロローグ:『大旅行記』とは何か?
・番外編:ドバイの『イブン バトゥータ モール』に行ってきました!


●イブン・バットゥータの生涯
1304年(0歳)
・モロッコのタンジェで生まれる。当時はマリーン朝、第7代スルタンであるアブー・ヤークーブ・ユースフの治世。

1325年(21歳)
・タンジェからメッカ巡礼の旅に出発する。トレムセン、ビジャーヤ、コンスタンティーヌを経てチュニスに到着。チュニスの地方官の娘と結婚する。

1326年(22歳)
・タラーブルス、アレクサンドリア、カイロ、ナーブルス、サイダーなどを経由してダマスカスに到着。メディナ、メッカへ向かい最初のメッカ巡礼を果たす。

1327年(23歳)
・ワースィト、バスラを経てエスファハンに滞在。シーラーズ、バグダードに滞在。タブリーズ、マウスィルへ向かったあとで再びメッカに戻る。

1328年〜1329年(24〜25歳)
・メッカに滞在。

1330年(26歳)
・巡礼大祭に参加後、紅海を南下してイエメンへ向かう。

1331年(27歳)
・東アフリカ、アラビア半島南部を旅する。

1332年(28歳)
・イラン南部、ハジャル、ヤマーマを経てメッカに戻る。インドへ向け出発。上エジプト、シリアから小アジアへ向かう。アクリードゥールに滞在し、ラーズィクを経てブルサに到着。

1333年(29歳)
・コンスタンティノープルへ向けて出発。
キプチャク・ハン国スルタンのウズベク・ハンに謁見する
・ロシア南部のヴォルガ・ブルガールを経てコンスタンティノープル(東ローマ帝国の首都)に到着。
コンスタンティノープルで東ローマ帝国皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスに謁見する
聖ソフィア大聖堂について説明する
・中央アジアに広がるチャガタイ・ハン国に到着。スルタンのタルマシリンに謁見する
・中央アジアのフワーリズムやカーブルを経てインダス川に到着し、スィンド地方を経てデリーに到着。
デリーのクトゥブ・ミナールについて説明する
トゥグルク朝スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクの性格について言及する
14世紀のトゥグルク朝インドの物価高騰について言及 
トゥグルク朝スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクに謁見する
ムハンマド=ビン=トゥグルクから法官職を任命される

1334年〜1340年(30〜36歳)
・デリーに滞在。イブラーヒム・ブン・ジャラール・ウッディーン・アフサーン・シャーの娘と結婚する。
スルタンに債務免除を懇願する

1341年(37歳)
・法官を辞してザーウィヤに滞在。

1342年(38歳)
スルタンから元への使節に任命される
・デリーを出発

1343年(39歳)
・インド洋のムライバール海岸を通過し、シンダーブールに滞在。カーリークートに戻った後にマルディヴへ向かう。

1344年〜1346年(40〜42歳)
・マルディヴを出発し、スリランカ、南インドを経てマルディヴに戻った後、ベンガル、スマトラを経て泉州に到着。広東と杭州を経て大都へ到着。

1347年(43歳)
・東南アジアを経てカウラム到着。ザファール、マスカト、ホルムズ、イラン、イラクを巡る。

1348年(44歳)
・バグダード到着。ダマスカス、ハマーを経て、アレッポ滞在。イエルサレム、アレクサンドリア、カイロに向かい、ペストの被害を目撃する。カイロ滞在後にメッカへ到着。

1349年(45歳)
・巡礼大祭に参加後、メディナ、ガッザ、カイロへ向かう。アレクサンドリアから船で出発し、ガーベス、チュニス、サルディニア島、トレムセン、ファースに到着。マリーン朝のスルタン、アブー・イナーン・ファーリスと謁見。

1350年〜1351年(46〜47歳)
・タンジェに戻った後、ジハードのためにジブラルタル海峡を渡ってアンダルスへ向かい、ロンダ、グラナダに到着。イブン・ジュザイイと会う。サラー、マラケシュを経てファースに戻る。

1352年(48歳)
・シジルマーサを出発、サハラ砂漠横断の旅を行ない、マーリーに到着。

1353年(49歳)
マーリーを出発、タカッダー、シジルマーサに到着。

1354年(50歳)
・ダール・アッタマゥ到着。ファースへ向かう。

1355年(51歳)
・巡礼記を終える。

1368年(64歳)
・死去


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