以下が、イブン・バットゥータ『大旅行記』の年表で、このレビューのインデックスでもあります。
西暦は、東洋文庫
『大旅行記1』
415頁にあるものを参考にしました。
実際は、さまざまな矛盾がある(面会したとされる人物が、その年代だとすでに死去していた等)のですが、レビューではこの年表を用います。
●イブン・バットゥータの旅行図・
プロローグ:『大旅行記』とは何か?・番外編:
ドバイの『イブン バトゥータ モール』に行ってきました!●イブン・バットゥータの生涯1304年(0歳)・モロッコのタンジェで生まれる。当時はマリーン朝、第7代スルタンであるアブー・ヤークーブ・ユースフの治世。
1325年(21歳)・タンジェからメッカ巡礼の旅に出発する。トレムセン、ビジャーヤ、コンスタンティーヌを経てチュニスに到着。チュニスの地方官の娘と結婚する。
1326年(22歳)・タラーブルス、アレクサンドリア、カイロ、ナーブルス、サイダーなどを経由してダマスカスに到着。メディナ、メッカへ向かい最初のメッカ巡礼を果たす。
1327年(23歳)・ワースィト、バスラを経てエスファハンに滞在。シーラーズ、バグダードに滞在。タブリーズ、マウスィルへ向かったあとで再びメッカに戻る。
1328年〜1329年(24〜25歳)・メッカに滞在。
1330年(26歳)・巡礼大祭に参加後、紅海を南下してイエメンへ向かう。
1331年(27歳)・東アフリカ、アラビア半島南部を旅する。
1332年(28歳)・イラン南部、ハジャル、ヤマーマを経てメッカに戻る。インドへ向け出発。上エジプト、シリアから小アジアへ向かう。アクリードゥールに滞在し、ラーズィクを経てブルサに到着。
1333年(29歳)・コンスタンティノープルへ向けて出発。
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キプチャク・ハン国スルタンのウズベク・ハンに謁見する・ロシア南部のヴォルガ・ブルガールを経てコンスタンティノープル(東ローマ帝国の首都)に到着。
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コンスタンティノープルで東ローマ帝国皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスに謁見する・
聖ソフィア大聖堂について説明する・中央アジアに広がるチャガタイ・ハン国に到着。
スルタンのタルマシリンに謁見する・中央アジアのフワーリズムやカーブルを経てインダス川に到着し、スィンド地方を経てデリーに到着。
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デリーのクトゥブ・ミナールについて説明する・
トゥグルク朝スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクの性格について言及する・
14世紀のトゥグルク朝インドの物価高騰について言及 ・
トゥグルク朝スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクに謁見する・
ムハンマド=ビン=トゥグルクから法官職を任命される1334年〜1340年(30〜36歳)・デリーに滞在。イブラーヒム・ブン・ジャラール・ウッディーン・アフサーン・シャーの娘と結婚する。
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スルタンに債務免除を懇願する1341年(37歳)・法官を辞してザーウィヤに滞在。
1342年(38歳)・
スルタンから元への使節に任命される・デリーを出発
1343年(39歳)・インド洋のムライバール海岸を通過し、シンダーブールに滞在。カーリークートに戻った後にマルディヴへ向かう。
1344年〜1346年(40〜42歳)・マルディヴを出発し、スリランカ、南インドを経てマルディヴに戻った後、ベンガル、スマトラを経て泉州に到着。広東と杭州を経て大都へ到着。
1347年(43歳)・東南アジアを経てカウラム到着。ザファール、マスカト、ホルムズ、イラン、イラクを巡る。
1348年(44歳)・バグダード到着。ダマスカス、ハマーを経て、アレッポ滞在。イエルサレム、アレクサンドリア、カイロに向かい、ペストの被害を目撃する。カイロ滞在後にメッカへ到着。
1349年(45歳)・巡礼大祭に参加後、メディナ、ガッザ、カイロへ向かう。アレクサンドリアから船で出発し、ガーベス、チュニス、サルディニア島、トレムセン、ファースに到着。マリーン朝のスルタン、アブー・イナーン・ファーリスと謁見。
1350年〜1351年(46〜47歳)・タンジェに戻った後、ジハードのためにジブラルタル海峡を渡ってアンダルスへ向かい、ロンダ、グラナダに到着。イブン・ジュザイイと会う。サラー、マラケシュを経てファースに戻る。
1352年(48歳)・シジルマーサを出発、サハラ砂漠横断の旅を行ない、マーリーに到着。
1353年(49歳)マーリーを出発、タカッダー、シジルマーサに到着。
1354年(50歳)・ダール・アッタマゥ到着。ファースへ向かう。
1355年(51歳)・巡礼記を終える。
1368年(64歳)・死去
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