2012年03月12日

トゥグルク朝の使節として中国行きを命ぜられる

イブン・バットゥータはトゥグルク朝インドに8年に及ぶ長期滞在をしました。スルタンであるムハンマド=ビン=トゥグルクの覚えめでたいことが、彼にとって何より幸いしました。

その一方でムハンマドは苛烈で残虐な性格で、機嫌が悪くなると側近ですら処刑するほどでした。実は、イブン・バットゥータも危うく処刑されそうになったこともありましたが、機転を利かせて免れました。

このようにいろいろなことがあったインドでしたが、ついに離れる時が来ました。
なんと、スルタンから中国行きの使節に任命されたのです。1342年のことです。

『大旅行記5』354頁
私がスルタンのもとに行くと、スルタンは私が以前に経験したより、さらに鄭重な態度で迎えられ、「そもそもわしが汝のもとに使いをやったのは、そなたがわしに代わって、使者としてシナ王のもとへ赴くためじゃよ。その訳は、そなたが旅と遊覧好きであることを、このわしも知っておるからじゃ」と、スルタンは申された。
そこでスルタンは私が必要とする一切のものを準備し、また私に随行する旅の同行者として、後に述べる人たちを指名されたのである。

『大旅行記6』16頁
かつてシナの王(1)は、(トゥグルク朝インドの)スルタン(ムハンマド=ビン=トゥグルク)のもとに贈り物(2)を贈って、(ヒマラヤ山脈の)カラージール山の一地区に偶像の家(寺院)を建立する許可を求めてきた。それがある場所は、サムハルと呼ばれるところで、これまでシナ人たちはそこに巡礼を行っていたが、インドのイスラム軍がそこを占領して、破壊と略奪を行った。
この贈り物がスルタンのもとに到着すると、早速、スルタンは次のような返書をシナ王に送った。「そもそも、このような御申し出については、イスラムの信仰に照らすならば、これを完全に遂行することは許されぬが、人頭税(ジズヤ)(3)を支払う者に限っては、イスラム教徒の地で寺院(カニーサ)を立てることが許されようぞ。されば、御身がもしその義務を果たす御意志がおありならば、われらはその建設をそなたに許可するであろう。常に、神の正しき導きに従わんとする者に、平安あらんことを!」
そして、スルタンは返礼として、その贈り物に対して、それを上回る品々で報いられた(2)

★解説
当時は元朝だった中国から使者がトゥグルク朝インドにやってきて、「元朝とトゥグルク朝インドの国境に近いカラージール山の一地区に寺院を建立したい」と言ってきたとあります。それへの返答をするため、贈り物を携えた使者団を派遣することになり、イブン・バットゥータもスルタンの命により使節団に加わりました。

ToghunTemur.jpg(1)シナの王
当時の元朝皇帝は、トゴン・テムル(順帝、在位1332年〜1370年)でした。彼は元朝最後の皇帝です

トゴン・テムルがトゥグルク朝インドに使節団を派遣したとする中国側の資料は未だ確認されておらず、こういったこともイブン・バットゥータがはたして中国まで行ったのかどうかが怪しい理由のひとつになっています。

ついでに、トゴン・テムルおよび元朝の最期にも触れます。
元朝は内部分裂によって急速に力を失った結果、各地で反乱が相次ぎます。反乱軍のひとつが紅巾党で、その中から朱元璋が登場します。朱元璋は他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位してを建国しました。

朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都(今の北京)に迫ります。ここに至ってトゴン・テムルは中国統治に見切りをつけ、北のモンゴル高原へと敗走しました。そして、2年後に病死します。
その後、元朝政権は一応続いていくのですが、歴史的にはこれ以降は北元と呼んで別扱いにしています。


(2)贈り物一覧
文中にあるように元朝側の贈り物をはるかに超える量で応えます。対抗心か?
元朝トゥグルク朝

・100人の男女奴隷
・500着のカムハー織りの衣服
 (内100着は泉州産、100着は杭州産)
・5着の宝石を散りばめた衣服
・5つの錦紗を張った矢筒
・5本の刀剣  など















・100人の男女奴隷
・100頭の駿馬
・100着のバイラム織りの衣服
・100反の「ジュッズ」という絹織物
・100着の「サラーヒーヤ」という衣服
・100着のシーリーン・バーフの衣服
・100着のシャーン・バーフの衣服
・500着の山羊毛織りの衣服
・100反のギリシア製亜麻織物
・100枚の敷布
・1張りのサラージャ
・6張りの小型天幕
・4個の黄金製台付き杯
・6個の銀製台付き杯
・4基の黄金製水盤
・6基の銀製水盤
・10着の金錦織り礼服
・10個の縁なし帽
・10個の錦紗を張った矢筒
・10本の刀剣
・1個の宝石を散りばめた手袋
・15人の小姓たち



(3)人頭税(ジズヤ)
ジズヤは世界史の教科書にも出てきましたね。非イスラム教徒に対して一定程度の人権の保障の見返りとして課せられるものです。非イスラム教徒に対しイスラムの優位を誇示する効果がありました。


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トゥグルク朝スルタンに債務免除を懇願する

イブン・バットゥータの『大旅行記』を読んでいて、疑問に思うことがありました。
彼は一生のほとんどを旅していたわけですが、その資金はどこから来ていたのか?

caravan.jpgマルコ・ポーロと比較してみます。マルコ・ポーロの一家は商人で、キャラバンを率いて世界の国々を旅していました。つまり、自分たちの旅費はビジネスで稼いで捻出していたのです。

しかし、イブン・バットゥータは商人ではありません。たしかに、彼の旅をバックアップしたのはイスラム商人たちでしたが、それでも資金の問題は必ずついてまわっていたと思われます。
そんなことを考えていたら、明快な答えが『大旅行記』に書かれていました。

なんと、彼はイスラム商人たちから借金をすることで旅費を捻出していたのです。
しかも凄いことに、はじめから踏み倒すつもりで借りていたっぽいのです。

『大旅行記5』325頁
私は、かねて、旅の道中で使った費用や、スルタンへの贈り物として用意したもの、私のデリー滞在中に費やしたものなどのすべての必要費用を数人の商人から借金をしていた。その商人たちが郷国に旅立つことを望んだ際、彼らは私に彼らの貸付金の返済を促した。そこで私は、スルタンを賛美する次のような出だしの長い詩(カスイーダ)を詠んだ。

(※この後、スルタンを称える本当に長〜い詩が続きます。内容は・・・
高貴なること、もし太陽にも優る地位あらば
汝こそ、まさに最も崇高なるに相応しき規範(イマーム)の御方

・・・などと、スルタンを思いっきりヨイショするものです)

私は、以上の詩をスルタンのもとに献じた。その時、スルタンは椅子にお座りになって、膝の上にそれを記した紙を置き、その一端を御手に握り、もう一方の端をこの私がしっかりと持った。私は、その詩句の一行を読み終えるごとに、大法官カマール・ウッディーン・アルガズナウィーに「その意味を世界のご主人様(フーンド・アーラム)に説明下さるよう」申し上げた。すると、彼は説明し、スルタンを楽しませた。彼らインド人たちはことさらにアラビア語の詩を好んでいるためである。そして、上述の私の詩句の中の終盤の部分に来ると、彼は「マルハマ!」と言った。その意味は、「わしは汝に情けを垂れようぞ」ということである。

(中略)

「ハワージャ・ジャハーンのところに行け! そして、あの者の債務が清算されるように、と言ってやれ!」と命ぜられた。

なんか、マンガみたいなやり取りです。
@イスラム商人たちから返済を迫られるイブン・バットゥータ
Aインド スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクに債務免除の相談に行く
Bスルタンのご機嫌を取るために、彼をヨイショする長い詩を延々読み続ける
Cスルタン、すっかりご機嫌になり債務免除を約束する


異国の王宮で法官職として就職したばかりか、スルタンに頼み込んでプライベートの借金を返済してもらおうとしたのです。これぐらいの図太さがなければ、とても三大陸を冒険することなどできないということでしょうか。

実はこの話には続きがあります。
債務免除がすっかりうまく行ったと思って、イブン・バットゥータはウキウキしていましたが、その後スルタン側から連絡がありませんでした。
スルタンは狩猟やらなんやらで多忙になり、それどころではなくなっていたのです。しかも、連絡の行き違いなどもあり、結局、債務免除は保留になってしまいました、というオチまでつきます。

本当にマンガのような話です。

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14世紀インドの物価高騰について言及 

今、欧州経済は危険水域にあり、日本も歴史的な円高で大きなダメージを受けていますが、経済というものはいつの世も変動があります。『大旅行記』では、14世紀のトゥグルク朝インドをおそった物価高騰について言及されています。

『大旅行記5』248頁〜
スルタンがマァバル地方に向けて出立され、首都を不在にされている間に、物価の高騰が起こり、事態は次第に深刻さを増した。穀物の価格は1マンが60ディルハムにまで達し、その後さらに高騰した。状況は窮迫し、ますます悲惨な状態になった。

そうしたときに、私は宰相との接見に出かけたが、その道すがらで3人の女が数ヶ月前に死んだ馬の皮を小さく刻んで、食べているのを目撃した。そうした皮を煮て、市場で売られていた。また一般の人々は牛を屠殺したとき、その血液を取って食べた。

<中略>

状況がさらに切迫したとき、スルタンはデリーの全住民のために6ヶ月分の食料を提供するように命ぜられた。そこで法官たち、書記たちと軍司令官たちは、路地や街区を回って、住民調査を行い、各人に1日当たりの食料――マグリブ地方のラトル単位で1.5ラトルに相当する――6ヶ月分与えた。

その期間を通じて、私は、スルタン、クトブ・ウッディーンの墓廟に供えるために準備していた食料を人々に提供したので、多くの人々の命がそれによって救われた。

●解説
物価高によって食料が買えなくなり、飢えに苦しむ民衆の姿が伝わってきます。そこでスルタンは、「デリーの全住民のために6ヶ月分の食料を提供」する政策を実施します。これは政府による景気対策の原型といえます


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社長(スルタン)面接を経て王宮で就職決定!!

スルタンのムハンマド=ビン=トゥグルクは、相当イブン・バットゥータを気に入りました。そして、トゥグルク朝インドの法官職に就くように指示します。

『大旅行記5』321頁〜
宮殿に入って見てみると、スルタンは高殿の上で、玉座に背をもたせかけておられた。一方、カブーラ大王はその前に侍立していた。私がカブーラ大王に挨拶すると、大王は「拝礼せよ! 世界のご主人様は、そなたを王国の都デリーにおける法官に任命あそばされた。そなたの棒給は年間1万2000ディーナールとされ、領地も割り当てられた」と言った。

<中略>
 
スルタンは「デリーの法官職はとても重要な任務だ」と私に言われたが、私は「ありがたいお言葉ですが、私はスンニ派のマーリク派法学を学んでいますが、この国はハナフィー派です。しかも、ペルシア語もわかりません」と話した。
 
すると、スルタンは「安心せい。わしは、すでにバハーゥ・ウッディーン・アルムルターニーとカマール・ウッディーン・アルビジュヌーリーを汝の補佐官に任命している。二人がそなたにいろいろと助言を求めて来ることじゃろう。しかるに、そなたとしては法廷議事録を記録すればよいのじゃよ。そなたはわれらにとれても子息も同然じゃからな」と言われた。

●解説
社長(スルタン)がイブン・バットゥータを法官職に任命し、給料(年間1万2000ディーナール)まで詳細に決めていました。しかし、イブン・バットゥータは一回、固辞します。
「いや、無理ですって、私はペルシア語が話せませんし・・・」

すると社長(スルタン)は「大丈夫。有能な同僚を二人も付けるから」といい、結局インドという旅先の王宮で法官職としての就職が決定し、この後8年間もを務めることになります

なんという逞しさでしょうか。ちょっと信じがたいです。彼なら、間違って当時の日本に漂着しても室町幕府でシッカリ働いていたような気もします


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トゥグルク朝スルタンに謁見する

イブン・バットゥータは、トゥグルク朝インドの第2代スルタンムハンマド=ビン=トゥグルク(wikipedia)にも謁見しています。これだけ訪問する国々の君主という君主に謁見できるって、ちょっと凄過ぎじゃないですか。

『大旅行記5』313頁〜
私がスルタンに近付くと、やがてスルタンは私の手を取って握手し、その手を握ったまま放さずに、この上なき丁重なお言葉で呼びかけはじめ、ペルシャ語で「汝の来朝は、慶賀に堪えぬことだ。さてもさても、よくぞ来られた。まずはくつろがれるがよい。わしは、汝に何かと温情をかけて進ぜようぞ。汝の郷国の者たちが噂を伝え聞き、汝のもとに集まり来るほどの手厚い授け物も進ぜようぞ」と私に申された。

それに続いてスルタンは、私の国はどこかと尋ねられたので、「マグリブ地方でございます」と返答すると、御方は「では、アブド・アルムゥミンの御国か?」と聞かれた。そこでは私は「さようでございます」と言った。

スルタンからの厚い言葉を賜るたびに、私は御方の手に口付けし、それが7回にも及んだ。やがてスルタンから記念の礼服を賜った後、私は退席した。

●解説
下線部の部分、何気に凄いので注目してください。
スルタンは「では、アブド・アルムゥミンの御国か?」と聞きます

このアブド・アルムゥミンとは、ムワッヒド朝(1130年-1269年)を建国した初代カリフのアブド・アルムゥミン(wikipedia)のこと。

caravan.jpg1269年にマリーン朝に滅ぼされ、イブン・バットゥータがいた時代のマグリブ地方はマリーン朝の政権下にありましたが、スルタンが言ったことは間違ってはいません。

14世紀当時に、インドのスルタンが北アフリカの情報を知っていたことに驚きです。キャラバン商隊などから情報を得るなどして、色々と知っていたんでしょうね。


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トゥグルク朝スルタンの性格について言及

gold.jpgイブン・バットゥータがトゥグルク朝インドを訪れたときは、第2代スルタンムハンマド=ビン=トゥグルク(wikipedia)の治世でした。彼の苛烈な性格を知ることができる記述があります。

写真はムハンマド=ビン=トゥグルク治世下の金貨。

『大旅行記5』48頁〜
この王は、人に恵み与えることを誰よりも好まれ、ときにまた他人の血を流すことを最もお好みになっていた。したがって、彼の門前からは、金品を恵まれた乞食たちの列が絶えず、ときにまた、生ける命を絶たれた者たちの死体が絶えなかった。

彼に対する人々の数ある世評として、寛大で勇敢であるかと思えば、また極悪人たちの持つ残虐さと凶暴さが評判となった。

それはともかくとして、彼こそは人々のなかで最も厳しくおのれ自身をへりくだり、また最も多くの公正な態度と正しい処罰をもってことに臨む御方である。そして、イスラム信仰に関する諸々の儀式・行事は彼のもとで忠実に遵守された。実際に彼は日々の礼拝にきわめて厳格で、その務めを怠ることに罰を科した。彼こそは、好運の星、必ずや巡り来たりて、命じたること、必ずや良き結果を生みて、常人の成果を遥かに凌駕する昔日の大君主たちのなかのひとりに数えられる。

●解説
ムハンマド=ビン=トゥグルクは軍人として苛烈な性格で、版図を広げることに成功した一方で、気に入らない人間はすぐに処刑したり、通貨危機を招いたりと失政も数多く行いました。その結果、各地で反乱が起こるはめになります。

彼の性格についてイブン・バットゥータは「伝聞ではなく、実際に会って感じたことを書いている」と述べています。そう、実は彼はムハンマド=ビン=トゥグルクに謁見し、側近として仕事までしているのです。その性格描写は、同時代の史料を根拠に調査してみても正確と言われていますが、それも当然と言えます。


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