2013年08月11日

百人一首58 大弐三位

daininosanmi.jpg
ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
 いでそよ人を 忘れやはする

★歌意
有馬山に近い猪名(いな)の笹原に風が吹くと、笹の葉が「そよ」と音をたてます。さあ、そのことですよ、(揺れて不安定なのはあなたの心で)私があなたのことを忘れましょうか。(いや決して忘れはしませんよ)


★解説
「有馬山」は、兵庫県神戸市有馬温泉地域にある山の総称です。有馬温泉は、日本三古湯の一つに数えられるほど、古来から親しまれてきました。
「猪名」も兵庫県に流れる猪名川付近の野のこと。

「いでそよ」は、「さあ、それですよ」の意味。
「人を忘れやはする」の「やは」は反語の意を表す係助詞。よって、「私があなたのことを忘れましょうか? いや忘れません」という意味になります。


★人物
大弐三位(藤原賢子)(だいにのさんみ、ふじわら の けんし、999年頃〜1082年頃)
『源氏物語』の作者として超メジャーな人物・紫式部(57番)と藤原宣孝の娘。母親の血を受け継ぎ、和歌・漢詩の才に長けていました。
母の後を継いで、一条院の女院・彰子に女房として宮仕えします。このとき複数の男性と交際したと言われていますから、容姿も淡麗だったと思われます。

その後、藤原兼隆と結婚し、一女をもうけますが後に離婚。1025年、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられます。

1037年までの間に、高階成章と再婚し、為家を生みます。1054年、後冷泉天皇の即位とともに成章は、正三位・大宰大弐に就任。そのことから、夫人の賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになりました。


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2013年08月10日

百人一首57 紫式部

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めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな

★歌意
たまたま出会って、見たのがそれ(月)であったかどうかもわからないうちに、雲に隠れてしまった真夜中の月であることよ。昔親しかった人と偶然めぐりあったが、慌ただしく帰ってしまった人であることよ。


★解説
「めぐりあひて」は、長い間逢わなかった人に、偶然に出会うこと。「めぐりあひ」と「雲がくれ」は、月の縁語。
「見しやそれとも」は、見たのがそれ(月)であったかどうかも、の意味です。
「夜半」は真夜中。久しぶりに逢った人を「月」に例えています。


★人物
紫式部(むらさき しきぶ、生没年不詳)
『源氏物語』の作者として、超メジャーな人物。父である藤原為時が、そもそも屈指の学者・詩人。家の環境もあり、漢詩・和歌の才を早くから発揮しました。

998年、22歳の頃、親子ほども年の差がある藤原宣孝と結婚。翌年に藤原賢子(大弐三位、58番)を儲けます。ただ、夫の宣孝は高齢だったこともあり1001年には死去してしまいます。

1005年頃、一条天皇の中宮・彰子に女房として仕え、少なくとも1012年頃まで奉仕。その間に『源氏物語』を記しました。また、宮仕えの体験を『紫式部日記』としても残しています。

この『紫式部日記』の中で、『枕草子』作者の清少納言について
「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」(得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない)と辛辣なことを述べています。

そのことから、紫式部と清少納言の二人は仲が悪かったという話もあります。しかし、清少納言が宮仕えを辞めてから10年後くらいに紫式部が宮仕えを始めています。おそらく二人は面識はなかったと思われます。


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2013年07月16日

百人一首56 和泉式部

izumishikibu.jpg
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
 いまひとたびの 逢ふこともがな

★歌意
(私は間もなく死んで)この世にはいないでしょう、だから死んだ後の、あの世での思い出にするために、せめてもう一度、あなたにお逢いしたいものです。


★解説
「あらざらむ」を漢字で書くと「在らざらむ」で、「生きてはいないでしょう」という意。「この世」を修飾します。
「今ひとたびの」は、「せめてもう一度」と強く願う気持ち。
「逢う」は、単に会うだけでなく、夜をともに過ごすという意。
病気になって死期を悟った女性が、恋しい人に対して捧げた情熱的な歌という設定です。


★人物
和泉式部(いずみ しきぶ、978年頃〜没年不詳)
越前守・大江雅致の娘。和泉守・橘道貞と結婚。「和泉式部」という女房名は夫の任国から来ています。道貞との間に儲けた娘・小式部内侍(60番)は母の血を受け継いで歌才を発揮しました。

和泉式部は美人であったため、様々な男性と恋愛を重ねていきます。道貞と離婚後は、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王と熱愛。彼の死後は、なんとその弟・敦道親王に愛されます。
敦道親王の死後は、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。その縁で、藤原保昌と再婚しました。
彼女の恋愛遍歴は、恋愛に奔放だった平安時代の人から見てもかなり突出していたようで、時の権力者・藤原道長からは「浮かれ女」と評されます。また同僚女房であった紫式部からは「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」(『紫式部日記』)と評されました。


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2013年07月15日

百人一首55 大納言公任

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滝の音は たえて久しく なりぬれど
 名こそ流れて なほ聞えけれ

★歌意
滝の水音が聞こえなくなってから長い年月が経ってしまっているけれども、その滝の名だけは世間に流れ伝わって、現在でもやはり聞こえていることだ。


★解説
歌の舞台は、京都市右京区嵯峨の大覚寺。ここには嵯峨天皇の離宮がありました。
天皇はその庭に人工的な滝を作って有名でしたが、大納言公任がこの歌を詠んだ頃にはすでに水は枯れて、滝跡だけが残っている状態でした。


nakosotaki.jpgその情景について、「滝の水音はもう聞こえないけども、その名声は今も聞こえている」と詠ったわけです。
後世、この歌によって「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれ、大沢池の北隅に滝跡の碑があります。


★人物
大納言公任(藤原公任)(ふじわら の きんとう、966年〜1041年)
祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、政治的にも芸術的にも名門の出。優れた学才により一条天皇の治世を支えました。和歌の他、漢詩、管弦にもすぐれ、「三舟の才」と称されたほど。
当時、全盛期にあった藤原道長には迎合していたものの、芸術面で名門の意地を見せていました。


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2013年06月27日

百人一首54 儀同三司母

gidousanshi.jpg
わすれじの 行末までは かたければ
 今日をかぎりの 命ともがな

★歌意
「いつまでも忘れまい」と言われる言葉が、遠い将来までも変わらないということは難しいことですから、(逢えて、そのお言葉を聞いた)今日を最後として、死んでしまいたいと思います。


★解説
「忘れじの」の「じ」は「〜しまい」と訳します。打ち消しの意志を表す助動詞「じ」の終止形です。
「かたければ」は「難しいことだから」の意です。

この歌は当時の「通い婚」(男が女の家に通ってくる結婚形態)の中で生きる女性の心情を表しています。
男性は女性を前にして遠い行く末を誓ってくれます。
しかし、女性は「それは難しいことです」と考えており、だからこそ今日の幸福に命をかけようと願っているのです。


★人物
儀同三司母(高階貴子)(ぎどうさんしのはは、たかしなの たかこ、生年不詳〜996年)
下級貴族だった高階成忠(なりただ)の娘。和歌・漢詩の才が認められ、円融天皇の内侍として宮中に出仕しました。関白・藤原道隆の側室となり、伊周(これちか)、隆家、定子を含む三男四女を生みました。

夫・道隆が関白、摂政となり、定子が一条天皇の中宮に立てられ、嫡男の伊周も儀同三司・内大臣と急速に昇進したため、貴子を含めた一族郎党が大出世します。

ところが、995年に夫の道隆が病死すると状況は一転します。息子の伊周と隆家が、あの藤原道長と対立するのです。しかし、伊周側は政争に敗れ、権勢は瞬く間に道長側に移ってしまいます。
しかも、伊周と隆家は、花山院に矢を射掛けた罪(長徳の変)によって配流されてしまいます。
貴子は息子の身の上を念じながら病死します。寂しい晩年でした。


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2013年06月23日

百人一首53 日記系ブログの元祖・藤原道綱母

mititunanohaha.jpg
嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは
 いかに久しき ものとかは知る

★歌意
(あなたがおいでにならないので)嘆き嘆き独り寝をする夜の、その明けるまでの間は、どんなに長く感じられるかということを、あなたはおわかりでしょうか。(おそらくおわかりではないでしょうね)


★解説
「拾遺集」の詞書に、この歌のシチュエーションが書かれています。
夫である藤原兼家が久しぶりに、訪ねて来てくれました。
兼家には愛人が何人かいましたから、心が安らぐことがほとんどありません。
さて、門を開けるのが遅れてしまいました。
すると、兼家は「おいっ立ちくたびれたぞ」と不満げに言うじゃありませんか。
藤原道綱母はちょっとキレてしまいます。「門の外でしばらく待つのがそんなに長いのでしょうか?
私が独りで寝る夜の長いことといったら、あなたにわかりますか」と言い返したわけです。


★人物
右大将道綱母(藤原道綱母)(ふじわら の みちつな の はは、936年〜995年)
藤原兼家の側室となり、一子道綱を儲けました。当時の女性は本名を名乗らない習慣があったため、
道綱母と呼ばれました。

文学的な才能に恵まれており、和歌はもちろん『蜻蛉日記』(かげろうにっき)という随筆も残しています。
この『蜻蛉日記』では、夫・藤原兼家との結婚生活の様子などをつづっています。
その内容は赤裸々なもので、夫に次々とできる愛人についての文句やグチなどを書いています。
今でいえば、結婚生活の不満を書いた日記系ブログといったところでしょうか。
これが数百年経てば「文学作品」になってしまうところが恐ろしい。

夫への文句とともに、息子・道綱のことについても「おとなし過ぎるおっとりとした性格」などと書いています。
きっと心配だったんでしょうね。とくに縁談については、よく苦言をつづっています。
いつの世の親も考えることは同じですね。

こんな自己主張の激しい父母に挟まれて成長したためか、息子の道綱は精神が鍛えられ、生真面目な常識人として育ちます。そりゃそうだよな。


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