2013年09月25日

百人一首64 権中納言定頼

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朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木

★歌意
夜がほのぼのと明けてくる頃に、宇治川一面にたちこめていた川霧が、絶え間を見せ始め(晴れてきて)、次第に現れてくる、浅瀬ごとに仕掛けた網代木よ。


★解説
「朝ぼらけ」は31番を参照。
「宇治の川霧 たえだえに」は宇治川(京都府)に立ち込めた霧が、途切れ途切れにという意。
「網代木」は、浅瀬で魚を獲るために竹や木を編み重ねて張る漁具の支柱の杭のこと。霧が晴れてきたら、網代木と漁をしている人々が見え、景色の変化にハッとする歌です。


★人物
権中納言定頼(藤原定頼)(ふじわら の さだより、995年〜1045年)
権大納言・藤原公任(55番)の長男。権中納言、正二位まで上り、順調に出世した人生といえます。
少し軽薄な性格だったようで、小式部内侍(60番)に意地悪をしたら、逆にやり込められてしまいました。それでも、音楽・読経・書が得意で容姿も優れ、女性にはもてたようです。


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2013年09月24日

百人一首63 左京大夫道雅

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今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
 人づてならで いふよしもがな

★歌意
今はひたすら(あなたのことを)あきらめてしまおうと、ただそれだけを、人づてでなくて(直接に逢って)言う方法があるとよいのになあ。


★解説
この歌は古語の意味さえわかれば、とても理解しやすいです。
「今はただ」は、「今となっては、もう」の意。
「思ひ絶え」は「あきらめてしまう」の意。
「人づてならで」は、「人に頼むのではなく」
「よしもがな」の“よし”は「方法」の意。“もがな”は願望を表す終助詞。よって、「方法があればいいのになぁ」の意味。


★人物
左京大夫道雅(藤原道雅)(ふじわら の みちまさ、992年〜1054年)
関白の藤原道隆の孫で、藤原伊周の子。生まれは名門一家でしたが、父の伊周が花山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし(長徳の変)、左遷されてしまったため、没落した中で成長します。

成長後もなかなかの波乱続きで、更迭・謹慎・左遷が多い人生を過ごしました。『栄華物語』によれば、当子内親王と密通し、これを知った内親王の父である三条院(68番)の怒りに触れました。この人の個性がそうさせるのか、それとも陰謀に巻き込まれやすかったのかわかりませんが、寂しい人生と感じます。歌も悲恋とかネガティブなものが多いです。


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2013年08月31日

百人一首62 清少納言 才女の凄味が伺える歌

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夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
 よに逢坂の 関はゆるさじ

★歌意
夜のまだ深いうちに、鶏の鳴き声をまねて、(関所の門をあけさせようと)だましても、(函谷関ならともかく)決して(私たちの逢う)逢坂の関は許しますまい。
――だまそうとなさっても、私は決してあなたの言葉にはのりませんよ。


★解説
「夜をこめて」は、「夜であることを隠して」の意。

「鳥のそら鳴はかかるとも」は、「鳥の鳴き声をまねしても」の意。これは『史記』(司馬遷)に出てくる中国・戦国時代の故事を踏まえての表現なので、説明を加えます。
斉の孟嘗君(田文)が秦に使いに出たとき、捕えられて殺されそうになりました。そのとき奇策を用いて逃げ出し、やっとのことで函谷関(現在の河南省)に着きました。しかし、この関所は一番鶏が鳴かないうちは開かない規則。そこで、部下の中で鳴きマネのうまい者に命じたところ、門番はまんまと勘違いして関所を開け、孟嘗君たちは無事にピンチを切り抜けました。
孟嘗君は日頃から、盗みやモノマネが得意なものを部下に入れていました。この故事から、「人には使いようがある」という「鶏鳴狗盗」(けいめい くとう)という成語が生まれました。

この故事成語を踏まえて、「函谷関ならともかく、私たちの逢う『逢坂の関』は開きませんよ」と歌っているわけです。漢文・漢詩の才能がなければ作れない歌のため、いかに清少納言が才女だったかがわかります。

なお、百人一首の中に「逢坂の関」をテーマにした歌は多く、蝉丸(10番)、三条右大臣(25番)を含めて3首あります。滋賀県大津市には「逢坂の関記念公園」があり、この3首の歌碑が建てられています。


★人物
清少納言(せいしょうなごん、966年頃〜1025年頃)
著名歌人だった清原元輔(42番)の晩年の娘。曽祖父・清原深養父(36番)も著名歌人。
981年頃、陸奥守・橘則光と結婚し、翌年に橘則長を授かります。しかし、武人で歌の教養が乏しい夫とは反りが合わず、やがて離婚します。後に、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけます。

993年頃から、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、その才気で宮中で有名人になります。彼女が宮中で見聞きしたことを随筆としてまとめたものが『枕草子』。1000年経っても色褪せない名著です。

晩年は亡父元輔の山荘があった辺りに住み、藤原公任(55番)ら宮廷の元同僚や、和泉式部(56番)・赤染衛門(59番)ら中宮彰子付の女房たちと交流していたとされています。


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2013年08月27日

百人一首61 伊勢大輔

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いにしへの 奈良の都の 八重桜
 けふ九重に にほひぬるかな

★歌意
昔の奈良の都で咲いていた八重桜が、今日は(この平安の都の、この)宮中に、一段と美しく咲きほこっていることでございますよ。


★解説
「いにしへ」と「今日」、「八重」と「九重」が対象表現になっています。
「今日九重に」は、「今日」と「京」、「九重(=宮中)」と「ここの辺」が掛詞。
「にほひぬるかな」の「にほひ」は、香りではなく、美しく咲いている意です。


★人物
伊勢大輔(いせのたいふ、989年頃〜1060年)
伊勢神宮の祭主・大中臣輔親の娘。大中臣能宣(49番)の孫。高階成順と結婚し、康資王母、筑前乳母、源兼俊母など優れた歌人を生みました。

一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、和泉式部(56番)、紫式部(57番)らと親交がありました。晩年は白河天皇の教育にあたりました。

この歌は、奈良から献上された八重桜を受け取る役目を紫式部から譲られ、さらに藤原道長から「即座に和歌を詠んでみなさい」とムチャ振りされたときのものです。このときの伊勢大輔は新参女房で、目の前には中宮彰子がいました。ガチガチに緊張しながらもこの歌を詠みあげ、その出来栄えから「ブラボー」とスタンディングオベーションされました。


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2013年08月13日

百人一首60 小式部内侍 ― 「親の七光り」という悪評を吹き飛ばす

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大江山 いく野の道の 遠ければ
 まだふみも見ず 天の橋立

★歌意
大江山を越えて行き、生野を通って行く道が(都からは)遠いので、まだ(母のいる)天の橋立を踏んで見たこともなく、もちろんまだ(母からの)手紙も見ていません。


★解説
「大江山」は現在の京都市西北部にある大枝山。
「いく野」は京都府福知山市にある生野。「行く」との掛詞になっています。
「天の橋立」は日本三景の一つで、京都府宮津市の宮津湾にある砂州(さす)のこと。
歌の解説は下記の人物欄にて。


★人物
小式部内侍(こしきぶ の ないし、999年頃〜1025年)
父は橘道貞、母は和泉式部(56番)。母と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕しました。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになりました。

母はの和泉式部は、和歌の才能と恋愛の奔放さは突出していました。橘道貞と離婚後は、さまざまな男性と恋愛を繰り返していきます。相当目立った存在だったと思われます。そのため、小式部内侍は周囲から母と比較されていたようです。和歌の才能も母譲りで優れていたにも関わらず、周囲からは「どうせ母が代作しているんだろう」と思われていました。

あるとき、京都で歌合が開催されました。そのとき出場していた小式部内侍に、藤原定頼(64番)がいじわるな質問をします。「もうお母さんのところには使いを出しましたか?」と。
このとき、母・和泉式部は、再婚した夫・藤原保昌の任国である丹後(京都府北部)にともに下っていました。つまり、「代作頼むために、お母さんのいる丹後に使いは出しましたか?」といういじわるだったわけです。いつの時代にもいるんですねぇ〜、こういう人。

そこで、応酬したのが表題の歌です。
「母がいる丹後には天橋立がありますね。でも、私一度も見たことがないんですぅ。もちろん母からの手紙なんてのも見てませんわよ」と。
掛詞や縁語、地名が巧みに利用されたこの歌の完成度は凄まじく、いじわるした定頼はもとより、世間のウワサも吹っ飛ばしてしまいました。

その後、25歳という若さで死去。母・和泉式部よりも早い死でした。


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2013年08月12日

百人一首59 赤染衛門

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やすらはで 寝なましものを 小夜更けて
 かたぶくまでの 月を見しかな

★歌意
(あなたのやってくるのを、あてにしなかったならば)ためらわずに寝てしまいましたでしょうに。(今か今かとお待ちしているうちに)夜が更けて、とうとう西の山に傾く月を見る時間までお待ちしたことでございますよ。


★解説
「やすらはで」は“ためらわずに”の意。
「寝なましものを」は“寝てしまったことだろうに”の意です。
「かたぶくまでの」は(夜が明ける頃になり)月が西山に“傾くまでの”意。つまり、その月を見る時間まで寝ないで男をずっと待っていたということ。男への恨みを込めた歌です。


★人物
赤染衛門(あかぞめえもん、956年頃〜1041年)
赤染衛門は赤染時用の娘。大江匡衡(まさひら)の妻。
歌は男への恨みを込めていますが、赤染衛門夫婦が仲が悪かったわけではありません。『紫式部日記』によれば、大江匡衡と赤染衛門はおしどり夫婦として知られており、仲睦ましい夫婦仲と書かれています。実は、この歌は自分の姉妹に代わって歌った代作なんです。

赤染衛門は、藤原道長の正妻である源倫子とその娘の中宮彰子に仕えました。この宮仕えの期間に、紫式部・和泉式部・清少納言・伊勢大輔等と親交がありました。


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