2013年11月24日

百人一首88 皇嘉門院別当

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難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
 みをつくしてや 恋ひわたるべき

★歌意
難波の入り江に生えている芦の刈り根の一節ではないが、(そのように短い)あなたとの仮寝の一夜を過ごしたために、私はこれからずっと難波江の“みおつくし”のように、この身を尽くしてあなたを恋い続けることでしょうか。


★解説
「難波江の」→大阪湾の入り江。19番20番にもあり。
「かりねのひとよゆゑ」→「仮寝」と「刈り根(=切り株)」、「一節」と「一夜」の掛詞。
「みをつくし」→「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。→20番
「恋ひわたるべき」→直前の「や」と呼応して係り結びの法則が働き、「べし」が「べき」に変化しています。


★人物
皇嘉門院別当(こうかもんいん の べっとう、生没年不詳)
源俊隆の娘。崇徳天皇(77番)の中宮皇嘉門院藤原聖子に仕えました。皇嘉門院聖子が摂政藤原忠通(76番)の娘で、九条家の藤原兼実の姉であることから、兼実家の歌会に参加していました。


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百人一首87 寂蓮法師

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村雨の 露もまだひぬ まきの葉に
 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ

★歌意
にわか雨が通り過ぎて、そのしずくもまだ乾いていない真木の葉に、(早くも谷の方から)霧が立ち上ってくる(静かで寂しい)秋の夕暮れであることよ。


★解説
「村雨の露も」→「村雨」は急にばらばら降りすぎる雨。秋から冬にかけて降る。「露」はその村雨が残したしずく。
「まだひぬ」→「ひぬ」は“乾いていない”の意。
「まき」→杉・ヒノキの総称。


★人物
寂蓮法師(じゃくれん ほうし、1139年?〜1202年)
僧・俊海の子。叔父である藤原俊成の養子となり、出家前は藤原定長という名でした。『新古今和歌集』の撰者となりますが、完成を待たずに死去しました。

経歴
?歳:<従五位上>、中務少輔 30歳代:出家 63歳頃:死去


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百人一首86 西行法師

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なげけとて 月やはものを 思はする
 かこち顔なる わが涙かな

★歌意
「嘆け」と言って、月が私に物思いをさせるのであろうか、いやそうではない。(恋がそうさせるのだ。)そうであるのに、月のせいのようにして、恨めしそうな様子でこぼれ落ちる私の涙であることよ。


★解説
「月やは物思を思はする」→月を擬人化し、「月が物思いをさせるのであろうか、いやそうではない」の意。「やは」は反語。
「かこち顔なる」→「かこつ」は他のせいにする。


★人物
西行法師(さいぎょう ほうし、1118年〜1190年)
saigyo2.jpg左衛門尉・佐藤康清の子。出家前の名前は佐藤義清(さとう のりきよ)。
NHK大河ドラマ『平清盛』(2012年)では、イケメン藤木直人が演じました。平清盛とは北面武士の頃の同僚であり、親友だったという設定でした。

西行が出家した理由には諸説ありますが、本作では待賢門院璋子(演:檀れい)との愛憎劇によるものとしています。説話として伝わっている、出家の際に俗世への未練を断ち切るため娘を縁側から蹴落とすシーンも再現されています。

出家直後は京都北麓に隠棲し、26歳頃に奥羽地方へ旅行し、31歳頃に高野山(和歌山県高野町)入り。50歳で四国に旅立ち、讃岐国(香川県)では流刑によってこの地で没した旧主・崇徳院(77番)の墓を訪ねてその霊を慰めました。
その後、高野山に戻り、59歳のときに伊勢国二見浦に移り、68歳のときに二度目の奥州行き。この帰りに鎌倉で源頼朝に面会しました。

このように西行は各地を旅しながら、旺盛な創作意欲で多数の歌を創り出しました。彼の歌は『新古今集』に94首も収められており、これは入撰数第1位の数を誇ります。
彼が後世に与えた影響はきわめて大きく、後鳥羽院(99番)をはじめとして、宗祇、松尾芭蕉など、多くの歌人からリスペクトされました。

経歴
18歳:左兵衛尉、鳥羽院の北面武士 23歳:出家 73歳:死去。


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2013年11月23日

百人一首85 俊恵法師

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夜もすがら もの思ふころは 明けやらで
 閨のひまさへ つれなかりけり

★歌意
一晩中、(冷淡な人を恋しがって)物思いをしているこの頃は、夜はなかなか明けきらないで、寝室の戸の隙間までも、(朝の光をもらしてくれないで)薄情であることよ。


★解説
「夜もすがら」→夜通し、一晩中。
「明けやらで」→明けきらないで。
「閨のひまさへ」→寝室の板戸のすき間。
「つれなかりけり」→冷淡であることよ。
冷淡な男が通ってこないのを恨んでいる歌。男を待つ夜は長く、せめてもの救いは、朝の訪れ、朝の光であるのに、その光さえもさしてこない。「閨のひま」さえ自分に薄情だと嘆いたもの。


★人物
俊恵法師(しゅんえ ほうし、1113年〜1191年頃)
源経信(71番)の孫。源俊頼(74番)の子。17歳のときに父と死別してから東大寺の僧になり、それから約20年もの間は作歌活動とは無縁でした。40歳以降から創作意欲が溢れ出し、自邸の「歌林苑」に歌人たちを集めて毎月、歌会を開きました。
ちなみに、『方丈記』の作者である鴨長明の和歌の師匠でもあります。


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2013年11月22日

百人一首84 藤原清輔朝臣

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ながらへば またこのごろや しのばれむ
 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

★歌意
(もしこの世に)生き長らえているならば、(辛いことの多い)この頃現在が、また懐かしく思い出されることであろうか。かつて辛いと思った過去が、今では恋しく思われることだから。


★解説
「ながらへば」→これから先も生き長らえていれば。
「憂しと見し世ぞ 今は恋しき」→辛くて思い出したくもない過去でさえ、今では懐かしくて恋しいものだ。であれば今の辛い境遇も、いずれは懐かしく思い出されるのだろうか。官位も低く、力を発揮できずに悶々としていた自分の境遇を反映したものと思われます。


★人物
藤原清輔(ふじわら の きよすけ、1104年〜1177年)
藤原北家。左京大夫・藤原顕輔(79番)の次男。崇徳院より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の編さんを命ぜられ、清輔もその補助に当たりましたが、顕輔と対立しほとんど清輔の意見は採用されませんでした。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったため、40歳代後半まで位階は従五位下に留まりました。

経歴
?歳:<従五位下> 52歳:<従四位下> ?歳:<正四位下>、太皇太后宮大進


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2013年11月21日

百人一首83 皇太后宮大夫俊成

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世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

★歌意
この世の中というところは、逃れる道はないのだなぁ。(逃れようと)深く思い込んで入ってきたこの山の奥にも、鹿が(悲しい声で、私と同じような気持ちで)鳴いているようだよ。


★解説
「道こそなけれ」→「道」は手段・方法。
「思ひ入る」→考え込む。
「鹿ぞ鳴くなる」→寂しさを表現するのに鹿はよく使われます。係り結びの法則により、文末が「なり」から「なる」に変化しています。


★人物
皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)(ふじわら の としなり、1114年〜1204年)
権中納言・藤原俊忠の子。『小倉百人一首』の撰者である藤原定家(97番)の父。
藤原道長の玄孫で藤原北家の出身でありながら、官位に恵まれず地方官を歴任します。この歌は27歳で遠江守(静岡県の大井川以西)に就いていたときの歌。人生が思うようにならないことを嘆いています。

歌の師匠は、藤原基俊(75番)。彼も藤原北家の出身でありながら、官位に恵まれなかった人物。和歌に没頭するような人は、政治的なことに熱心でないため出世に縁遠いようです。

さて、『平家物語』には、この藤原基俊と弟子の平忠度の泣けるエピソードが書かれています。大河ドラマ『平清盛』(2012年)のキャストを使って解説してみます。
藤原俊成(演:花柳寿楽)は、後白河院(演:松田翔太)の院宣によって和歌集の編さんを命じられますが、源平争乱が起こったため一時中断。権勢を誇っていた平家は都落ちします。
そんなとき、弟子の一人だった平忠度(演:ムロツヨシ)は危険を承知で藤原俊成を訪れ、「源平争乱で和歌集の編さんは中断していると思いますが、再開のときにはぜひ私の歌も入れてくださいませ」と言い、その場を去ります。
翌年、平忠度は一ノ谷の戦いで戦死。藤原俊成は忠度を忍んで歌を載せたいと思いましたが、皆から恨まれている平家の歌をそのまま載せることはできません。そこで「詠み人知らず」として一首のみ勅撰和歌集(『千載和歌集』)に載せたのでした

経歴
公卿前
13歳:<従五位下>、美作守 18歳:加賀守 23歳:遠江守 27歳:(続)遠江守 
31歳:<従五位上>、(続)遠江守→三河守 35歳:丹後守 36歳:<正五位下>、(続)丹後守 
37歳:<従四位下>、丹後守 38歳:左京権大夫 41歳:<従四位上>、(続)左京権大夫 
43歳:<正四位下>、(続)左京権大夫 47歳:左京大夫 52歳:(辞)左京大夫
公卿後
52歳:<従三位> 53歳:<正三位> 54歳:右京大夫 56歳:(兼)皇后宮大夫 
57歳:(兼)備前権守 58歳:皇太后宮大夫 61歳:(辞)右京大夫 62歳:出家 91歳:死去


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