2013年11月27日

百人一首94 参議雅経

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み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
 ふるさと寒く 衣打つなり

★歌意
吉野の山から秋風が吹き下ろしてきて、夜も更けて、この古い都であった里はいっそう寒くなり、(折しも砧で)衣を打っている音が寒々と聞こえてくることよ。


★解説
「み吉野」→「み」は美称の接頭語。奈良県吉野町あたり。
「さ夜ふけて」→「さ」も美称の接頭語。
「ふるさと寒く」→「ふるさと」は単に故郷という意味ではなく、古京・吉野のこと。
「衣打つなり」→石などの上で布を槌で打つこと。これで布は柔らかくなる。


★人物
参議雅経(飛鳥井雅経)(あすかい まさつね、1170年〜1221年)
難波頼経の次男。藤原北家から分派した飛鳥井家の祖。源頼朝・義経兄弟が対立した際、父・難波頼経は義経と親しかったため配流され、連座して雅経も鎌倉に護送されます。しかし、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結びました。

帰京してからは、後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、歌壇でも活躍しました。和歌所寄人となり、勅撰和歌集『新古今和歌集』の撰者の一人にもなっています。さらに蹴鞠でも重んじられ、後鳥羽上皇から「蹴鞠長者」の称号も与えられ、飛鳥井流蹴鞠の祖になりました。

経歴
公卿前
10歳以降:侍従など 31歳:和歌所寄人
公卿後
48歳:<従三位> 50歳:参議


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百人一首93 鎌倉右大臣

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世の中は 常にもがもな 渚こぐ
 あまの小舟の 綱手かなしも

★歌意
この世の中は、永遠に変わらないでいてほしいことよ。海岸沿いを行く漁夫の小舟の、引き綱を引いている姿は、しみじみといとおしいものであるよ。


★解説
「常にもがもな」→「もがも」は“〜であればよいがなぁ”と訳す願望の終助詞。
「あまの小舟の」→「あま」は“海人”で漁夫のこと。
「綱手かなしも」→「綱手」は引き舟のへさきにつけた綱。「かなし」は「愛し」と書き、“いとおしい”意。


★人物
鎌倉右大臣(源実朝)(みなもと の さねとも、1192年〜1219年)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の四男。兄の第2代将軍・頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就きます。歌人としても有名なため“ひ弱”なイメージがありますが、執権を務める北条氏に関与を深めながら政治面でも努力していました。
官位の昇進も早く右大臣に上ります。後鳥羽上皇が実朝に好意的だったため、その昇進に便宜を図ったといわれています。しかし、鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺され、以後は執権北条氏が政権を掌握していきます。

経歴
公卿前
12歳:<従五位下>、征夷大将軍、元服、右兵衛佐 13歳:<従五位上>、(続)右兵衛佐→右近衛権中将、(兼)加賀介 15歳:<従四位下>、(続)右近衛権中将、(続)加賀介 16歳:<従四位上>、(続)右近衛権中将、(続)加賀介 17歳:<正四位下>、(続)右近衛権中将、(続)加賀介 
公卿後
18歳:<従三位>、右近衛中将 20歳:<正三位>、(続)右近衛中将、美作権守 21歳:<従二位>、(続)右近衛中将、(続)美作権守 22歳:<正二位>、(続)右近衛中将、(続)美作権守 25歳:権中納言、(兼)左近衛中将 27歳:権大納言→内大臣→右大臣、(兼)左近衛大将、(兼)左馬寮御監 28歳:暗殺


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2013年11月26日

百人一首92 二条院讃岐

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わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
 人こそ知らね 乾く間もなし

★歌意
私の着物の袖は、潮の引くときにも見えない沖の海中の石のように、人は知らないでしょうが、(あなたを恋い慕って、涙で)乾くひまもありません。


★解説
「人こそ知らね」→「こそ・・・ね」の係り結び。
「乾く間もなし」→(いつも涙に濡れ通しなので)乾くひまもない。悲しい恋を表現したもの。


★人物
二条院讃岐(にじょういんのさぬき、1141年?〜1217年?)
源頼政の娘。二条天皇即位と同じ頃に女房として出仕しました。歌会に度々参加し、当代一流の女流歌人として知られていました。


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2013年11月25日

百人一首91 後京極摂政前太政大臣

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きりぎりす なくや霜夜の さむしろに
 衣かたしき ひとりかも寝む

★歌意
こおろぎが寂しく鳴いている、この霜のおりた夜の寒々としたむしろに、(私は着物を着たままで)着物の片袖を敷いて、ひとり寂しく寝るのであろうかなぁ。


★解説
「きりぎりす」→今の“こおろぎ”のことなので注意。
「さむしろに」→わらなどで編んだ粗末な敷物。「寒し」との掛詞。
「衣かたしき」→着物の片袖を敷いての意。
「ひとりかも寝む」→「か・・・む」の係り結び。ひとり寝の寂しさがこれでもかと表現されている。


★人物
後京極摂政前太政大臣(九条良経)(くじょう よしつね、1169年〜1206年)
摂政関白・九条兼実の子。九条家は藤原北家から派生した五摂家のひとつ。26歳で内大臣になるなど順調に出世を重ねましたが、1196年に反兼実派によって父とともに朝廷から追放されてしまいます(建久七年の政変)。
その4年後に左大臣として政界復帰を果たし、その後は摂政、太政大臣と官職のトップに昇り詰めます。ところが、38歳の若さで死去してしまいます。良経は和歌や書道、漢詩にも優れた教養人で、とくに書道は天才的な腕前でした。

経歴
公卿前
10歳:元服、<従五位上>、侍従 11歳:<正五位下>、(続)侍従 13歳:右近衛少将→左近衛中将
14歳:<従四位下>、(続)左近衛中将 16歳:<正四位下>、(続)左近衛中将
公卿後
16歳:<従三位>、(兼)播磨権守 18歳:<正三位>→<従二位>、(続)左近衛中将、(続)播磨権守
19歳:<正二位>、(続)左近衛中将 20歳:権中納言→権大納言、(続)左近衛中将
21歳:(兼)左近衛大将、(兼)中宮大夫 26歳:内大臣、(続)左近衛大将 29歳:(辞)左近衛大将
30歳:左大臣 34歳:内覧、(続)左大臣、摂政 35歳:<従一位>、(続)摂政、(辞)左大臣
35歳:太政大臣、(続)摂政 36歳:(辞)太政大臣 38歳:死去


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百人一首90 殷富門院大輔

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見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
 濡れにぞ濡れし 色はかはらず

★歌意
(悲しい涙で色の変わってしまった私の袖を)お見せしたいものですよ。(あの古い歌のように)雄島の漁夫の袖さえも、波でぬれそぼっていました。しかし(悲しみの涙で濡れたのではありませんから)色は変わらなかったのに。


★解説
「見せばやな」→「ばや」は希望の終助詞(29番)。「な」は詠嘆の終助詞。
「雄島のあまの袖だにも」→「雄島」は宮城県松島湾の島の一つ。
「濡れにぞ濡れし」→濡れに濡れた(ひどく濡れた)。


★人物
殷富門院大輔(いんぷもんいん の たいふ、1130年?〜1200年?)
従五位下・藤原信成の娘。若い頃から後白河院の第1皇女・殷富門院(亮子内親王)に出仕。それに伴い歌壇で長年にわたり活躍しました。
俊恵法師(85番)が主宰した歌林苑のメンバーでもあり、西行法師(86番)・寂蓮法師(87番)・藤原定家(97番)など多くの歌人と交際がありました。さらに自ら歌会も主催するほどアグレッシブな女官でした。


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2013年11月24日

百人一首89 式子内親王

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玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ることの 弱りもぞする

★歌意
私の命よ、絶えてしまうなら(いっそのこと)絶えてしまっておくれ。このまま生き長らえていると、(恋心が募って)耐え忍ぶ心も弱ってしまう。(その結果、人に知られてしまうといけませんから。)


★解説
「玉の緒よ」→魂を身につないでおく緒のこと。つまり“命”の意。
「絶えなば絶えね」→勝手にどうにでもなれ、と激しい語調。
「弱りもぞする」→「もぞ」、「もこそ」(72番)で懸念の気持ちを表す。


★人物
式子内親王(しょくし ないしんのう、1149年?〜1201年?)
後白河天皇の第3皇女。10歳頃から11年間、賀茂神社の斎院を勤めました。天皇家の一員ながらいろいろと苦労しており、後に出家します。

和歌では藤原俊成(83番)に師事し、その子定家(97番)とも交流がありました。歌会などの参加記録が乏しい一方で、『新古今和歌集』に49首も収められており、この時代の代表的女流歌人だったと思われます。


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