2013年12月01日

百人一首100 順徳院

ももしきや 古き軒端の しのぶにも
 なほあまりある 昔なりけり

★歌意
宮中の荒れ果てた古い御殿の軒に生えている忍ぶ草を見るにつけても、(皇室の衰微が情けなく思われて、)偲んでも偲びつくせないほど慕わしいものは、(延喜・天暦の頃など)昔のよく治まっていた御代であることよ。


★解説
「ももしき」→皇居・宮中の意。
「しのぶにも」→シダ類の一種「忍ぶ草」と「偲ぶ」の掛詞。
「昔なりけり」→「昔」は皇室が栄えた過去。鎌倉幕府に実権を奪われた現状への嘆きと怒りが込められている。


★人物
順徳院(順徳天皇)(じゅんとくてんのう、1197年〜1242年)
第84代天皇。後鳥羽天皇(99番)の第三皇子。14歳で即位し、25歳で譲位します。この譲位は、父の承久の乱に参画するためのもので、父以上に討幕に積極的でした。しかし、乱は失敗に終わり、佐渡へ配流となりました。そのまま21年後に死去します。
父の影響で和歌に興味を持ち、藤原定家(97番)に師事して腕を磨きました。


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百人一首99 後鳥羽院

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人もをし 人もうらめし あぢきなく
 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

★歌意
ある時は人がいとおしく、またある時は人が恨めしく思われる。おもしろくないものとしてこの世を思うために、さまざまな物思いをするこの私の身には。


★解説
「人もをし」→「をし」は「愛し」と書き、いとおしいの意。
「あぢきなく」→おもしろくないの意。
「世を思ふゆゑに」→この世をつまらなく思うために。
「物思ふ身は」→さまざまに世間の雑念にとらわれるこの身には。
悶々とした心情が歌われているこの作品は、承久の乱を起こす9年前に詠んだもの。このとき後鳥羽院は33歳。鎌倉幕府との対立が激化し、おもしろくないことが多い日々だったことがわかる。


★人物
後鳥羽院(後鳥羽天皇)(ごとばてんのう、1180年〜1239年)
第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。異母兄の安徳天皇(平清盛の孫)が平家一門とともに壇ノ浦にて入水。平家の滅亡が決定的だったこともあり、安徳天皇が退位する前に後白河法皇によって4歳で即位しました。

19歳で譲位し、以後3代23年間にわたり上皇として院政を行いました。鎌倉幕府には不満があり、源頼朝の死後も強硬な路線をとりました。そして、ついに承久の乱(1221年)を起して討幕を計画。しかし、幕府の大軍に完敗し、隠岐の島に流刑となり、19年後にそのまま死去します。

これだけ見ると武闘派のイメージがありますが、中世屈指の歌人でもあり、その作風は後世に多大な影響を与えました。日本を代表する勅撰和歌集である『新古今和歌集』、その撰集を命じたのはこの後鳥羽院です。


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百人一首98 従二位家隆

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風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
 みそぎぞ夏の しるしなりける

★歌意
風がそよそよと楢の葉に吹いている。このならの小川の夕暮れは、(秋の訪れを思わせるようであるが、)ただ(この川のほとりで行われている)みそぎの行事だけが、まだ夏であることの証拠なのだなぁ。


★解説
「風そよぐ」→「そよぐ」はそよそよと音を立てる意。
「ならの小川」→上賀茂神社(京都市北区)の中を流れる御手洗川のこと。ブナ科の楢との掛詞。
「みそぎぞ夏のしるしなりける」→「みそぎ」は「身そそぎ」がつづまった語で、川の水で体を洗い、罪や汚れを清めること。年中行事として6月と12月に行われる神事。


★人物
従二位家隆(藤原家隆)(ふじわら の いえたか、1158年〜1237年)
権中納言・藤原光隆の次男。藤原俊成(番)に師事し、和歌を学びました。歌人としては晩成型でしたが、やがて同時代の藤原定家と並び称される歌人として評価されました。
晩年になっても創作に励んでいた多作の人で、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われています。

経歴
公卿前
19歳:侍従 ?歳:阿波介 ?歳:越中守 35歳:(辞)侍従、<正五位下> 43歳:<従四位下> 
48歳:宮内卿 62歳:(辞)宮内卿
公卿後
62歳:<正三位> 77歳:<従二位> 79歳:出家、死去 


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2013年11月30日

百人一首97 権中納言定家

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来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

★歌意
(待っていても)来ない恋人を待っている私は、松帆の浦の夕凪時に焼いている藻塩のように、恋人を慕って身も恋焦がれていることですよ。


★解説
「まつほの浦の」→「松」と「待つ」の掛詞。「松穂の浦」は淡路島の北端にある海岸名。
「夕なぎに」→夕方の無風状態。
「焼くや藻塩の」→「焼く」は昔の製塩法。海水を何度もかけた海藻(これを藻塩草という)を天日干しし、それを焼いて水に混ぜ、煮詰めていくもの。
「身もこがれつつ」→私のこの身も、藻塩が焼けこげるように、恋いこがれている。


★人物
権中納言定家(藤原定家)(ふじわら の さだいえ、1162年〜1241年)
藤原北家の出で藤原俊成(83番)の二男。
2つの勅撰集である『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』の撰者を務めた歌道の中心的存在。後世にも巨大な影響を与えた人物です。この小倉百人一首の撰者でもあります。藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだため、“小倉”百人一首と呼ばれるようになりました。撰者の職権を活かし、百人一首にしっかり自分の歌も入れてます。

経歴
公卿前
4歳:<従五位下> 13歳:侍従 18歳:<従五位上>、(続)侍従 21歳:<正五位下>(続)侍従 27歳:左近衛少将
28歳:<従四位下>、(続)左近衛少将 29歳:(兼)因幡権介 33歳:<従四位上>、(続)左近衛少将、
(続)因幡権介 37歳:(兼)安芸権介、(辞)因幡権介 38歳:<正四位下>、(続)左近衛少将、(続)安芸権介 
40歳:左近衛中将 41歳:(兼)美濃介 48歳:(兼)淡路権介、(辞)美濃介、(辞)左近衛中将、内蔵頭
公卿後
49歳:<従三位>、侍従 52歳:参議、(続)侍従 53歳:(兼)伊予権守 54歳:(兼)治部卿、(辞)侍従、
<正三位>、(続)参議、(続)治部卿、(続)伊予権守 56歳:(兼)民部卿、(辞)治部卿 
54歳:(辞)伊予権守 58歳:(兼)播磨権守 60歳:(辞)参議、(続)治部卿、(続)播磨権守 
62歳:(辞)播磨権守 65歳:<正二位>、民部卿 70歳:権中納言→(辞)権中納言 71歳:出家 80歳:死去


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2013年11月29日

百人一首96 入道前太政大臣

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花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
 ふりゆくものは わが身なりけり

★歌意
(ふりゆくとは言うものの)桜の花を誘って吹き散らす山風が吹く庭の、降りゆく花の雪ではなくて、(本当にふりゆく、すなわち)老いてゆくものは、私自身であることよ。


★解説
「ふりゆく」→「(桜の花が雪のように)振りゆく」と「自分が旧りゆく」の掛詞。
「わが身なりけり」→自分の老いに気付いた嘆き。宮廷の頂点に登り詰め、華やかな人生だった筆者でも老いからは逃れられない現実が際立っている。


★人物
入道前太政大臣(西園寺公経)(さいおんじ きんつね、1171年〜1244年)
藤原北家から分派した西園寺家の実質的な祖。藤原実宗の子。源頼朝の妹婿・一条能保の娘を妻にしていたため、鎌倉幕府とは親しくしていました。承久の乱(1221年)の際には後鳥羽上皇(99番)によって幽閉されますが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献しました。
乱後は、幕府との結びつきをさらに強めて順調に昇進し、朝廷の実権を握りました。

経歴
公卿前
8歳:<従五位上> 10歳:侍従 12歳:<正五位下> 14歳:越前権介、左少将 15歳:備前介 
16歳:<従四位下> 18歳:讃岐権介 19歳:<正四位下> 22歳:左中将 25歳:蔵人頭
公卿後
27歳:<従三位>、参議 29歳:(兼)越前権守 30歳:<正三位> 31歳:権中納言 32歳:<従二位>、右衛門督、左衛門督、 35歳:中納言 36歳:<正二位>、権大納言  40歳:(兼)春宮大夫 47歳:大納言 51歳:内大臣→太政大臣 52歳:<従一位>、(辞)太政大臣


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2013年11月27日

百人一首95 前大僧正慈円

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おほけなく 憂き世の民に おほふかな
 わが立つ杣に すみぞめの袖

★歌意
身のほどをわきまえずに、辛いこの世に生きる人々を救いたいものだ。私が住み始めることになった比叡山における仏道修行によって。


★解説
「おほけなく」→身のほどをわきまえないで。
「憂き世の民におほふかな」→この世の人々の上に墨染めの衣の袖を覆うことよ(仏のご加護がありますように)
「わが立つ杣に」→「杣(そま)」は材木を切り出す杣山のことだが、ここでは比叡山を指す。
「墨染めの袖」→「黒く染めた法衣」と「住み初め」との掛詞。
慈円が生きていた平安末期から鎌倉時代にかけては、まさに乱世。「若くて分不相応かもしれないが、人々を救いたい」という思いが込められている。


★人物
前大僧正慈円(さきのだいそうじょう じえん、1155年〜1225年)
摂政関白・藤原忠通(76番)の子。天台宗の僧。名門の出ながら幼い頃から青蓮院に入り、12歳のときに比叡山で出家しました。38歳で僧職の最高位である天台座主になり、その後、4度も天台座主を務めています。一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえて重用しました。

経歴
12歳:出家 38歳:天台座主


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