2013年04月19日

『ギルバート・グレイプ』にアメリカ地方社会の絶望を見た

jack.jpegジョニー・デップ(1963年〜)。愛称ジョニデ。
今でこそ、『パイレーツ・オブ・カリビアン』(2003年〜)などのメジャー作品にも出演していますが、長いこと通好みのマイナー映画に好んで出演していました。

とくにティム・バートン監督によるダークファンタジーが大好きで、『シザーハンズ』(1990年)から『アリス・イン・ワンダーランド』(2010年)に至るまで、多数の作品に出演しています。


一方、珍しくヒューマン映画に出演したこともあります。それが『ギルバート・グレイプ』(1993年)。今回の本題です。

本作はジョニデファン以外はあまり知らないと思いますが、重要な映画です。
というのも、当時は無名だったレオナルド・ディカプリオを一躍有名にした映画だからです。彼は重度の知的障害者を演じたのですが、それはとても演技には見えないほどの迫真ぶりでした。ディカプリオはこの演技が評価されてアカデミー賞にノミネートされ、メジャー俳優の階段を駆け上っていくのです。

本作のあらすじです。
zyonide.jpgジョニデが演じる主人公ギルバート・グレイプは、すでに社会人の年齢ですが、自分が生まれ育ったアイオワ州の小さな町から生まれてから一度も出たことがありません。

ギルバートには外地に働きに行けない事情がありました。
まず弟(ディカプリオ)が重度の知的障害者でした。
また、母にも問題がありました。7年前に夫つまりギルバートの父が自殺してしまってから、そのショックから立ち直れず、家から一歩も出れなくなったのです。過食症で運動もしないため、体重は200kgに迫ろうかというほどの肥満体になってしいました。
加えて、二人の姉妹がおり、食料品店で働きながら家族の面倒を見ていたのです。

つまり、ギルバートには家族という足枷によって、田舎町に縛り付けられていたのです。
しかし、心優しいギルバートは表面的には不満を出さずに家族の面倒を見ていました。いつしか、これ以外の人生などはじめから存在しなかったのだと思い込むようになっていました。

そんなある日、旅の途中でトレーラーが故障し、ギルバートの町にしばらくとどまることになった少女ベッキーと出会います。若くて聡明でエネルギッシュなベッキーとの出会いによって、ギルバートの心は大きく変化します。そして、彼を取り巻く家族も変化していきます。
そんな感動物語です。

もうね。「どうぞ、泣いてください」という設定でね。ハンカチが10枚あっても足りませんよ。

さて、本作で描かれているアイオワ州の小さな町の描写は“絶望的”です。
とにかく何もありません。働く場所も、娯楽も、刺激も、出会いも何もありません
変化のない日常のなかで、人々の心は“生きながら死んでいる”状況です。

そして、私が大きなショックを受けたシーンが以下。
mcd.jpg友人がギルバートに言うのです。
「ギルバート知っているか? 今度この町にもマクドナルドができるんだってよ。俺はそこの店員に応募するんだ。ようやく俺にも運が向いてきたよ」

そして、実際にマクドナルドは進出してきて、この友人もそこで店員として働くようになります。マックの制服を着た友人は、とても満足そうな笑みを浮かべて、ギルバートに挨拶するのでした。

これ、アメリカの話ですよ。
世界中から夢、金、情報、人が集まるというイメージが強いあのアメリカにおける話ですよ。

一方日本なら、高校生でもマクドナルドでバイトしているわけですよ。まぁそれもアメリカ資本なんですが・・・。

私は、学生時代に本作を見て大きなショックを受けました。
本作を見た後であれば、日本のどんな田舎町でさえ、まだマシであることを思い知らされるのです

しかも、インドや南米の貧民街の話じゃないんです。
GDP世界第一位のアメリカにおける話なのです

ギルバートを取り巻く家族や友人たちは、最終的にはハッピーな雰囲気で終わりますが、
この田舎町の経済状況は、根本的に変化したわけではないのです

彼らが自発的に仕事を創造して、ハッピーになったわけではなく、
マクドナルドという巨大資本がやってきて、雇用が創出されたのです。
たしかに、日本でもよく目にする光景ですね。イオン、セブンイレブン、コカコーラ・・・。
でもね。田舎町での売上なんてたかが知れているでしょう。もし、マック本社が“不採算店舗”と判断して撤退したらどうなります? また元の木阿弥なんですよ。

資本主義の権化といえるアメリカにおいてさえ、
その末端細胞といえる地方社会では、資本主義が崩壊している皮肉
を本作では見ることができます。


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2013年03月19日

ウェザー・リポートの『バードランド』

weather-report.jpg『ジョジョの奇妙な冒険 第6部ストーンオーシャン』(荒木飛呂彦、2000年〜2003年)に、
ウェザー・リポートというキャラクターがいます。イケメンなので人気が高いキャラです。

さて、本作のキャラクター名やスタンド名は、洋楽のミュージシャンやアルバム名、曲名から付けられていることはよく知られています。
当然、ウェザー・リポートにも元ネタがあり、それが今回のお話しです。

本家のウェザー・リポートはジャズ・フュージョンのグループです。
フュージョンというのは、ジャズをベースにしながら、電子楽器を多用してロックやポップスの要素も取り入れたもので、主にマイルス・デイビスが発展させました。
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そのマイルス・デイビスのバンドに在籍し、マイルスの影響を大きく受けた
ウェイン・ショーター(写真右)とジョー・ザヴィヌル(写真右から2人目)の
2人によって、1971年にウェザー・リポートが結成されました。

weather-report2.jpgデビュー当時からすでに革新的なサウンドを作っていましたが、1976年から天才ベーシストの
ジャコ・パストリアス(写真左)が加入したことで、ほとんど無敵のバンドになってしまいました
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1977年のアルバム『ヘヴィ・ウェザー』では彼らの天才性が冗談みたいな開花の仕方をし、空前絶後の出来栄えになっています


ポップな感じなので、ジャズに興味がない人でも好きになるでしょう。30年以上前の音楽とは思えないほど、
新しさに満ちています。
とくに、ジャコのベース・ソロとドラミングが炸裂する「ティーン・タウン」や
歴史に残る名曲「バードランド」がオススメです。

「バードランド」は大ブレイクし、今日までさまざまなミュージシャンたちからカバーされてきました。
もっとも有名なカバーは、マンハッタン・トランスファーによる歌入りのものでしょう。

その他、メイナード・ファーガソンのカバーも最高です。超高音のトランペットの炸裂ぶりは快感です。


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2013年01月24日

ニンジャが海外で人気の理由

ninja-usa.jpg

忍者は“Ninja”として海外でも人気があります。なぜここまでニンジャが人気なのでしょうか。(画像:Seth W.)

スパイアクション&”東洋の神秘”
まずひとつに考えられるのは、「007」のようなスパイ小説の影響です。ジェームズ・ボンドの人並み外れた身体能力はまるで”忍術”ですし、”手裏剣”のような道具はボンドの秘密兵器に近いです。そして、一人で巨大な組織に立ち向かうという設定も「007」とニンジャ映画の両方に共通しています。

ジェームズ・ボンドは、1953年、イギリスの作家イアン・フレミングのスパイ小説『カジノ・ロワイヤル』によって、はじめて登場しました。その後、好評のため「007シリーズ」として続き、1962年にはショーン・コネリー主演で『ドクター・ノオ』が映画化されます。

これに続くセカンド・インパクトとしてブルース・リー(李小龍)が登場しました。ブルース・リーの『燃えよドラゴン』(1973年)の設定は、少林寺のカンフーマスターがスパイとしてラスボスの島に潜り込むというもので、「007」の影響が色濃く反映されています。これに西洋人が抱いている「東洋の神秘」であるカンフーが加わり、映画は大ヒット。ブルース・リーも世界的俳優になります。
これ以降、「東洋の神秘」は欧米人にとって新しい創作のネタとなります。そして、いよいよニンジャが登場するのです。


アメリカ独自のニンジャ文化
1980年にアメリカの小説家エリック・ヴァン・ラストベーダーが『ザ・ニンジャ』を発表します。おそらく本作が、海外で初めてのニンジャ小説と思われます。ストーリーは、日本人の血を引くニンジャの主人公が組織のスパイや敵忍者と戦うアクションもので、もちろん史実の忍者とはかけ離れていますがアメリカ人のハートをわしづかみにします。
そしてこの後、アメリカのニンジャ文化は、もはや日本から離れて独自の発展を続けていきます

1981年には映画『燃えよニンジャ』が公開され、ここに敵忍者としてショー・コスギが出演していました。今ではケイン・コスギの父としても有名ですね。
コスギは日本から単身アメリカに渡り、数々のオーディションを受けるも、言葉の壁などにぶつかり鳴かず飛ばずが続いていました。それが『燃えよニンジャ』の演技が評価されて以降は、主役ニンジャも務めることになり、全米でニンジャ・ブームが巻き起こるほど大ヒットしました。もちろん日本人として初めてのアクションスターとなります。
残念なことに、ショー・コスギの主演映画のほとんどが日本では未公開です。現実とかけ離れた日本観が満載でB級色が強いため、日本ではヒットしないと敬遠されているからだと思います。

この他、1981年にはRPGの原点といわれる『ウィザードリィ』が発売されます。このゲームでは、キャラクターの職業に「侍」(Samurai)や「忍者」(Ninja)が登場しました

Turtles.jpeg1984年にはアメコミ『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』が発行され、後にアニメ、実写映画化され世界中で大ブームになります。現在では、忍者が主人公のマンガ『NARUTO -ナルト-』(岸本斉史)の人気がすさまじいものになっています。

そして今日に至るまでニンジャは、ときには世界を救うヒーローとして、ときにはジャパニーズ・ヤクザの用心棒として無数の作品に登場しています。
昼間から黒装束を着てビルからビルへ飛び回るニンジャの姿は、日本人から見たら奇妙奇天烈ですが、それもまたひとつの“日本文化”といえるでしょう


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2012年06月17日

マイルスと手塚治虫の相似性3 困るぐらいの嫉妬深さ〜マイルス編〜

これまで“ジャズの帝王”マイルス・デイビスと“漫画の神様”手塚治虫の相似性を見てきました。
 相似性@ 死ぬまで挑戦し続けたこと  マイルス編  手塚編
 相似性A 弟子たちがその後の歴史を作ったこと  マイルス編  手塚編

Miles-Davis.jpg以上2つは、プラスの要素です。しかし、今回見ていくのはマイナス面。
人間は神ではありませんから、完璧ではありません。
 手塚治虫はアニメ事業の失敗で多額の借金をしましたし、
 マイルス・デイビスは麻薬に溺れて廃人になりかけました。

そんな彼らのもうひとつのマイナス要素が、かなり嫉妬深いということ。

一時代を築いた人でも年を取り、衰えていきます。人間は誰でもこの宿命から逃れられません。
しかし、彼らは天才であるがこそ、自身の衰退が許せません。同時に、自分を抜かしていく若手も許せません。

その執念が生涯現役につながり、死ぬまで挑戦することになるのです。それはとても素晴らしいことです。
しかし、現場にいる若手はたまったもんじゃありません。
「早く引退してくれないかな」と思っている人は多いはずです。

こうした光景はこの人間社会の至るところで見れます。
大御所がなかなか引退しない芸能界、70代以上が多数の国会議員、いつまでも経営に参加する創業者一族・・・。
そして、マイルス・デイビスと手塚治虫・・・。


60年代、ビートルズが台頭し、ロックが世界中を席巻します。一方でジャズは急速に過去の遺物になってしまいました。“ジャズの帝王”マイルス・デイビスは大いに焦ります。

しかし、彼は天才です。「奴らにできて、俺にできないわけがない」と執念を燃やし、彼もロックに挑戦します。このあたりは本当に凄いと思います。

ですが、ジャズ界で果敢に挑戦したのはマイルスただ一人でした。かたやロックの方は、次から次へと新たな才能が出てきます。とても勝てるものではありません。

さらに、マイルスにとって衝撃的だったのは、前回紹介したスティングの存在です。
スティングはロックミュージシャンですが、ジャズをバックボーンに持っていました。そして、ソロ転向後はジャズの分野に乗り込んでくるのです。老舗商店街に、新興ショッピングセンターが台頭してくる、そんな衝撃だったでしょう。

案の定、とんでもないことが起こります。なんと自分のバンドのメンバーがスティングに引き抜かれていくのです。
当然、マイルスは怒り狂います。この嫉妬に狂う様子が『マイルス・デイビス自叙伝』に記されています。
ダリル・ジョーンズは、そのすぐ後にオレのバンドを抜けた。それから彼は、スティングとパリで「ブリング・オン・ザ・ナイト」という映画と作って、その後はスティングとオレのバンドをかけもちでこなしはじめた。1985年の夏にヨーロッパをツアーしていたある日、もしオレとスティングが同じ日に仕事があったらどっちを取るんだと聞いてみた。彼が「わからない」と言うから、「いつかは起こることだから、よく考えておくんだな」と言い渡した。スティングは、オレが払っている金なんか問題にならないほどの金を出していたから、ダリルが辞めることも十分納得できた。これもデジャブー(既視感)だなと思ったが、考えてみれば、オレが誰かミュージシャンを使いたい時にも似たようなことをやってきていた。今度は、オレがやられるだけのことだ。

1985年の7月に東京に行った頃には、ジョン・スコフィールドもこれが最後のツアーだと言っていたから、ダリルが辞めることと合わせて、考えなきゃならなかった。ある日、東京でホテルの部屋に向かって、オレはウォークマンのヘッドフォンを引きずりながら歩いていた。するとダリルが、それを見て言った。「ねぇ、チーフ、床にヘッドフォンを引きずってるよ」。ミュージシャンの多くがオレのことを“チーフ”と呼ぶんだ。ところがオレは、ヘッドフォンを拾ってつかむと、向き直ってダリルに言ってしまった。「それがどうしたってんだ? お前はもうオレ達と一緒じゃないんだから、なんの関係があるってんだ! スティングに言ってやりゃいいじゃないか、お前の新しいリーダーだろうが」

ダリルの演奏が大好きだったし、スティングの所に行くこともわかっていたから、ただ腹を立てていたんだ。オレの言葉が彼を傷つけたことも、彼の顔に表れた苦しい表情も見て取れた。ダリルと甥のビンスはとても気が合っていたから、ダリルもオレの息子みたいなものだった。だから、スティングとやるために去っていく、それだけでオレも傷ついていたんだ。金銭的な意味でも知的なレベルでも理解はしていたが、だがその瞬間は感情が抑えられずに、心の痛みに反応して行動してしまった。後で彼を部屋に呼んで、長い時間話し合って、彼がどんな奴だか、とてもよく理解できた。彼が部屋を出ていこうとした時、オレは立ち上がって言った。「ヘイ、ダリル。すごくよくわかったぜ。お前もお前の演奏も大好きだから、すべてうまくいくように祈っているぜ」

ダリル・ジョーンズは、マイルス・デイビスの甥であるビンスと友人でした。
その縁故で、マイルスバンドに入団した経緯があったのです。
つまり、縁故入社させたのに、今よりサラリーがいいという理由で他社に転職するようなもの。
やられた方はマイルスでなくても、怒ると思います。

ただ、思わず怒ってしまった後は後悔し、ダリルに優しく接します。このくだりのマイルスは本当に普通の“人間”です。

それにしても、スティングとマイルス・デイビスの両方を尊敬してやまない私にとって、この文章は発狂するほど嬉しい価値のある内容です。しかも、舞台が東京で、ウォークマン聞きながらなんですから、ただそれだけで日本人として嬉しいです。


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2012年05月30日

ジャコ・パストリアスの肖像

ジャコ・パストリアスの肖像 2

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ジャコ・パストリアス。「天才」というのは、彼のためにあるといっても過言ではありません。

ジャコはベーシストでした。ベースって、誰が考えてもリズムを維持するための低音楽器ですよね。
クラシックにおけるコントラバスの時代から、そうでしたよね。

なのに、なにコレ。リード楽器にしちゃうってどういうこと?

サポートメンバーも驚異的に豪華で、ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロサンゼルス交響楽団まで参加しています。とにかく凄いの一言。

それにしても、35歳で死去って・・・。本当に天才って・・・。



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2012年01月12日

マイルスと手塚治虫の相似性2 “マイルスチルドレン”はジャズの歴史そのもの


“ジャズの帝王”と呼ばれながらも、大御所としての地位に甘んじることを好まなかったマイルス・デイビス。彼は好んで自分のバンドに才能ある若手を起用し、自分自身を高めていきました。

マイルスの下で力をつけた若手は“マイルスチルドレン”と呼ばれることもあり、後にジャズの改革者となるほど成長していったミュージシャンが多数いました。
まさに“マイルスチルドレン”はジャズの歴史そのものといえます。

ざっと見ただけでも、ジャズの巨人たちが並んでいます。
以下はほんの一部。これ以外にも“マイルスチルドレン”は相当数に上ります。
mils_chirdren1.jpg

mils_chirdren2.jpg

mils_chirdren3.jpg

●ジョン・コルトレーン(サックス) 20世紀ジャズ最大級のカリスマ。1955〜1960年マイルスバンドに在籍。モードジャズに並々ならぬ情熱を燃やしました。

●キャノンボール・アダレイ(サックス) 1955〜1963年在籍。アルバム『Somethin' Else』(1958年)の収録曲『Autumn Leaves』(枯葉)はジャズ・スタンダードになっています。

●レッド・ガーランド(ピアノ) 1955〜1958年在籍。ブロック・コードを活かした“ガーランド節”とよばれるスタイルで人気になりました。

●ポール・チェンバース(ベース) 1955〜1963年在籍。マイルスと異なり、モダン・ジャズのオーソドックスなスタイルにこだわり続けました。

●ビル・エヴァンス(ピアノ) 1958〜1959年在籍。クラシックの影響を受けたアレンジと優美なピアノ・タッチが様々なジャズミュージシャンに影響を与えました。

●ウェイン・ショーター(サックス) 1964〜1970年在籍。ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとともにいわゆる「黄金のクインテット」としてアコースティックジャズの頂点を極めました。

●キース・ジャレット(キーボード) 1970〜1971年在籍。マイルスの『ビッチェズ・ブリュー』発表期に、エレクトリックサウンドの面で重要な役割を担いました。

●ジョン・マクラフリン(ギター)  1970〜1971年不定期で在籍。ジャズをはじめ、インド音楽、フラメンコ、クラシックなどのスタイルも広く取り込んだ演奏を行いました。

●ハービー・ハンコック(ピアノ) 1963〜1968年在籍。60年代から現在に至るまで、ジャズ、フュージョン、ファンクなどの新しい時代を切り開く話題作を発表してきました。

●チック・コリア(キーボード) 1968〜1970年在籍。ジャズを基本にボサノヴァ、ロック、クラシックなどの要素を織り交ぜた楽曲が得意。今なお最前線で活躍する第一人者。代表曲は『スペイン』

●マーカス・ミラー(ベース) 1981〜1984年在籍。ジャズ、R&B、ファンクなどあらゆるジャンルをこなし、プロデューサー、作曲家・編曲家としても大活躍しています。

●ケイ赤城(キーボード) 1989〜1991年在籍。日本人というよりアジア人で唯一、マイルスのバンドメンバーだった人物。現在はカリフォルニア大学アーバイン校で音楽教授を務めながら、音楽活動をしています。


マイルスはアメリカにおける黒人差別に強烈な抵抗感を持ち、白人を毛嫌いしていました。しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通しました。

アレンジャーのギル・エヴァンスは白人ですが、マイルスが「もっとも近い親友」と呼び、生涯にわたって影響を受けた人物でした。

初期のバンドに在籍した白人のビル・エヴァンス(ピアノ)は、モードジャズ期のマイルスに多大な貢献をしました。
その他、リー・コニッツ(サックス)やジェリー・マリガン(ピアノ)といった白人プレイヤーもいました。

60年代末のエレクトリック期には、ジョー・ザヴィヌル(シンセサイザー)やジョン・マクラフリン(ギター)の存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していました。
その後もチック・コリア(キーボード)やキース・ジャレット(キーボード)、デイヴ・リーブマン(サックス)など多くの白人メンバーが在席しました。

なかでも、ケイ赤城(ピアノ)は、唯一の日本人メンバーですから、かなり貴重です。


マイルスは語っています。
「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」

「俺はミュージシャンに人間性など求めない。唯一求めるのは、俺を刺激してくれるかどうかだけだ」


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・中国語では迈尔士・戴维斯 Màiěrshì Dàiwéisī →中国語単語 外国人の名前
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