上の写真のスポットは、京成電鉄 千住大橋駅からすぐのところにあります。奥に写っているのが隅田川に掛かっている千住大橋で国道4号(通称:日光街道)が通っています。
そして、手前にあるのが『おくのほそ道』の出発地「矢立初めの地」を表す碑です。
元禄2(1689)年、松尾芭蕉は深川の芭蕉庵を引き払い、船に乗ります。そして隅田川を移動し、3月27日に千住大橋で下船しました。
千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。
「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
是を矢立の初として、行道なお進まず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。
●現代語訳
千住というところで船をおりると、「これから三千里の旅が始まるのか」という思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかないこの世の分かれ道での別れに涙を流す。
春が過ぎ去ろうとしているところに、旅立つ別れを惜しんでいたら、鳥たちは悲しそうに鳴き、水の中の魚も涙をためている感じがした。 より悲しみが沸き上がってくる。
この句を「矢立の初め」、つまりこの旅の最初の吟とはしたものの、後ろ髪を引かれて足が前に進まない。見送りの人々は道の真ん中に立って、後ろ姿がみえなくなるまで、見送ってくれた。
ちなみに、このスポットからは階段で、下にある隅田川沿いの遊歩道に降りられます。そこに描かれている絵がこちら。
さらに国道4号の反対側に行き、隅田川を背にして北へ5分程歩くと芭蕉像があります。壁に書かれているように、この一帯は江戸時代には千住宿(せんじゅしゅく)と呼ばれ、日光東照宮まで続く「日光街道」および奥州街道の最初の宿場町として発展しました。
加えて板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)、品川宿(東海道)ともに江戸四宿(えど ししゅく)のひとつに数えられた重要宿場町です。
右は芭蕉像を正面から見た写真です。筆を持ってますよね。この筆や墨を一組として収めた携帯用の筆記用具を「矢立」(やだて)と呼びました。
「矢立初めの地」とは、矢立を初めて使った場所。つまり千住が『おくのほそ道』執筆の出発地であったことを意味するわけです。
●もうひとつの芭蕉像
さて、芭蕉像は実はもう一つ存在します。それは隅田川を渡って南にずっと行ったところ、JR南千住駅の前です。これは「千住論争」が関係しています。
芭蕉たちが千住大橋の北側で下りたのか、南側で下りたのかは記録に残していないため不明です。北側も南側も同じ「千住」ですし、彼らにとっては重要なことではなかったからでしょう。ところが、そこをハッキリ記してくれなかったことで300年後である今日、ひとつの論争を生むことになります。
なんと現在は千住大橋の北側は足立区、南側は荒川区と行政区が異なっているのです。そしてこの2区双方が「ウチこそが矢立初めの地だ!!」と主張しているのです。
左の写真が南千住駅前の芭蕉像。こちらも矢立を持っていますね。心なしか、「ワイが本家やで!」と主張しているようにも感じます (;^ω^)
ただ実際のところ、「千住論争」がヒートアップしていたのは何十年も前の話。今では同じ「千住」、同じ「矢立初めの地」としてお互い協力する方向に変わっているように感じます。
ぜひ芭蕉が残してくれた貴重な遺産を活かして、どちらも地元を盛り上げていってほしいですね。
★関連記事
・松尾芭蕉『おくのほそ道』年表
・日本史 年代別記事一覧
・東京都 記事一覧
・日本文化 俳句
江戸四宿を歩く?品川宿・千住宿・板橋宿・内藤新宿 (江戸・東京文庫) 新品価格 |