
さて、モーツァルトの話題の前に、今回はザルツブルクの歴史について触れたいと思います。
本来ザルツブルクはかなりの寒冷地でかつての1月なら雪が積もっているのが普通ですが、近年は異常気象の影響か、写真の通り雪はありません。
また、この写真1枚にはザルツブルクの特徴が凝縮されています。
@発展の要となった「ザルツァッハ川」
A奥にそびえ立つ巨大な「ホーエンザルツブルク城」
B旧市街につながる「マカルト橋」
●ザルツァッハ川:都市名の由来にもなった塩(ザルツ)
英語でソルト(salt)という「塩」はドイツ語ではザルツ(salz)と呼びます。またブルクは「砦」や「町」の意で、つまりザルツブルクは「塩の町」を意味します。ただ塩が産出されたのはここではなく、15キロほど南のバート・デュルンベルクになります。製塩されたものを船乗りたちがザルツァッハ川(塩の川)を通じてヨーロッパ各地に送り込み、その利権でザルツブルクはどんどん発展していきました。
●ホーエンザルツブルク城:大司教の権力の象徴
塩は生命の維持に不可欠ですし、冷蔵庫がない時代では今よりもはるかに貴重な保存調味料でした。そのため古今東西問わず、塩の利権を持つものが大きな権力を持つことになるのです。
ではザルツブルクで塩の利権を独占していた者は誰か? 通常なら有力貴族ですが、この都市では珍しく聖職者である大司教が利権を独占し、王のように君臨していました。その影響力は強大で、ザルツブルクは長らく独立した領邦国家としての立場を保ち続け、オーストリアの支配下になるのは19世紀と最近になってからです。
町のどこからでも見える巨大なホーエンザルツブルク城は大司教の権力の象徴です。ただ、当初この城はまさに防衛が目的で建設されました。南下してくる神聖ローマ帝国から身を守るためです。
●叙任権闘争で教皇側についたザルツブルク
962年に神聖ローマ帝国が成立して以来、帝国皇帝とローマ教皇は協力関係にありました。
★関連記事 ・正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム
しかし、それから1世紀経ったとき、聖職者の任命権を巡ってお互いが優位性を主張し、叙任権闘争が勃発します。ヨーロッパ各都市は皇帝派と教皇派に分かれて、紛争状態に陥りました。
ザルツブルクは教皇派につき、1077年ホーエンザルツブルク城を建設し皇帝派からの攻撃に備えます。なにせ、同年1月にはあの有名な「カノッサの屈辱」が起こっており、中欧諸国は極度の緊張状態にありました。これはローマ教皇グレゴリウス7世が、叙任権闘争で激しく対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門。ハインリヒ4世が許しを請うべく、イタリアのカノッサにてグレゴリウス7世に跪いて謝罪した事件のことです。これにより破門を解かれたハインリヒ4世は、今度は一転してグレゴリウス7世を攻め込み、世相は不穏な空気で包まれていた時期でした。
その後も皇帝派 VS 教皇派の争いは何世紀にもわたって続きますが、13世紀になるとザルツブルクは皇帝派を支持するようになります。ホーエンザルツブルク城はその度に増築・拡大されて行きました。
●マカルト橋:埋め尽くされる恋人たちのカギ
ザルツブルクは、ザルツァッハ川を挟んでホーエンザルツブルク城がある区域を「旧市街」、反対側は「新市街」と分けられています。旧市街には教会や歴史的建造物が数多く遺されており、これらを中心に「ザルツブルク市街の歴史地区」として世界遺産に登録されています。ではマカルト橋を渡って、見所いっぱいの旧市街へ向かいましょう!
写真の通り、マカルト橋にはカラフルな装飾がなされていますが、実はこれ南京錠です。世界中から訪れるカップルたちが永遠の愛を誓って、別れないように南京錠に鍵をかけているわけです。
さぁ!橋を渡れば、そこは中世ヨーロッパの面影いっぱいの旧市街です。
★関連記事
・モーツァルト 記事一覧
・中央ヨーロッパ史 年代別記事一覧
![]() | 中古価格 |
