2019年12月20日

超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(後編)

habsburg03.jpg写真はウィーンの中心地にあるホーフブルク王宮。神聖ローマ帝国およびオーストリア帝国、つまりはハプスブルク家の政治の中心でした。

観光名所となっている現在でも敷地内の建物は大統領公邸や国立図書館、シシィ博物館などとして利用されています。


●盟主の座をプロイセンに奪われる
さて、「ドイツ連邦」の盟主となったオーストリア帝国でしたが、負け戦が続きます。クリミア戦争で外交的に失敗し、1859年にはサルデーニャ王国(イタリア王国の前身)に敗北。極めつけは、1866年の普墺戦争においてライバルのプロイセン王国に大敗。ドイツ連邦から追放され、盟主の座を完全にプロイセン王国に奪われてしまいました


●民族問題の妥協策としてオーストリア=ハンガリー帝国が成立
力を大きく低下させたハプスブルク家に、もうひとつ頭の痛い民族問題がのしかかります。オーストリア帝国の領土は現在のチェコ、スロバキア、ハンガリー、旧ユーゴスラビアなどに及んでおり、各民族は自治や独立を望んでいたのです。

その結果、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人に対する妥協(アウスグライヒ)を優先し、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立しました。


●深まる民族問題が発展し、第一次世界大戦勃発
しかし、これ以後も帝国内の民族問題は深刻さを深めていきます。1908年、オスマン帝国からボスニア・ヘルツェゴビナを奪取し併合した結果、セルビア人やムスリムらの反感が高まります

そして1914年、オーストリア皇位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボでセルビア人青年に暗殺されるサラエボ事件が発生します。報復としてオーストリアがセルビアへ宣戦布告したことをキッカケに戦火が全世界に飛び火し、第一次世界大戦が始まってしまうのです

結局、オーストリア=ハンガリー帝国は敗戦し、1918年に帝国は解体。チェコスロヴァキア、ハンガリーなどが次々に独立しました。ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世は亡命し、中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国はここに崩壊。その後はオーストリア共和国となり、ハプスブルク家の入国は禁止されます


●ハプスブルク本家のその後
カール1世は亡命後も何度か返り咲きを狙いますが、その度に挫折。最後は島流しに遭い、そこで亡くなります。そのとき息子で元皇太子のオットー・フォン・ハプスブルクはまだ9歳でした。

その後、オットーは主にスペイン、ベルギー、ドイツなどで亡命生活を送ります。ナチス・ドイツが台頭した第二次世界大戦中は、オーストリア併合を阻止するために精力的に活動しましたが、協力者たちは次々にナチスにより殺害。やむなくオットーたちはアメリカまで亡命し、大戦末期にヨーロッパに戻りました。

終戦してから時代は下り、1961年にオットーはオーストリア帝位継承権の放棄を宣言して、ようやくオーストリア共和国に入国を許されます。その後は欧州議会議員を務めました。この頃親交のあった日本人が、「戦後のフィクサー」と呼ばれた田中清玄です
激動の人生を歩んだオットーは98歳で2011年に亡くなりました。


●現代を生き抜くハプスブルク家
habsburg04.jpgオットーの息子カール・ハプスブルク=ロートリンゲン(59歳、写真左)が、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の当主です。かつて父と同様に欧州議会議員を務めました。1男2女の子供がいます。

写真の子供たちも今は成長し、ユニークな経歴を歩んでいます。長女エレオノーレ(26歳、写真右から2人目)は美貌を生かしモデルに。長男フェルディナント(22歳、写真中央)はF3レーサーとして活躍しています。

なお彼らはハプスブルク=ロートリンゲン家の本家ですが、その他一門は500人以上もおります。きっとその多くは名士として活躍しているんでしょうねー。以上で中欧の華麗なる一族ハプスブルク家の歴史は終わりです。それでは、また!


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posted by すぱあく at 13:00| オーストリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする