神聖ローマ帝国内ではプロテスタントとカトリック勢力との戦いが激化。すると、その混乱はあれよあれよと拡大し、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争(1618年〜1648年)に発展します。
戦後、ウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)が結ばれ、神聖ローマ帝国内の領邦は国家のように格上げされます。戦国時代のように群雄割拠となり、領邦国家は最終的には300以上にも上りました。逆に皇帝位の威光は形式的なものに後退し、ハプスブルク家の求心力は低下。オーストリア大公国を中心とした支配体制に移行していきます。
●往時の栄華復興を願って、シェーンブルン宮殿を建設
1683年、オスマン帝国が第二次ウィーン包囲を仕掛けてきますが、ハプスブルク家を含むヨーロッパ連合はこれを撃退。ハンガリーを奪還し、威光を回復させます。
この後、ハプスブルク家は往時の栄華復興を願って、ウィーンに豪華な宮殿を建設しようと考えます。それが、現在ではウィーンを代表する観光名所となっている世界遺産シェーンブルン宮殿です。マリア・テレジアが当主のときに完成し、夏の離宮として使われました。
1762年10月13日、6歳のモーツァルトがマリア・テレジアの御前で演奏しています。
・モーツァルトの生涯と代表作品
「シェーンブルン・イエロー」と呼ばれる黄色の外装が特徴です。この色は領内全ての国家建造物に適用されたため、当時は領内だったチェコやハンガリーにもシェーンブルン・イエローの建造物が残っています。
●プロイセンを警戒し、仇敵フランスに接近
さて、マリア・テレジアといえば、日本ではその娘であるマリー・アントワネットとセットで有名です。
『ベルサイユのばら』の影響ですね。彼女は男子5人、女子11人の計16人の子供を産み(多っ!)、マリー・アントワネットは11女になります。フランスのルイ16世に嫁ぎました。
前編で触れましたが、神聖ローマ帝国とフランスは長年の仇敵だったはず。なぜ、マリア・テレジアは大事な娘をフランスに嫁がせたのでしょうか? それは急に力をつけてきたプロイセン王国を警戒したためです。
ウィーンから見たら遥かに辺境にあったプロイセンは、かつては国力も乏しい小国でした。しかし、三十年戦争などでヨーロッパ全土が荒廃したのに比べ、辺境だったプロイセンはほぼ無傷。そうして次第に頭角を現すようになったんですね。
●フランス革命勃発で、アントワネット処刑!
1780年、マリア・テレジアは63歳で死去します。死の間際まで、派手好みでわがままなマリー・アントワネットの身を案じていたそうです。しかしその心配は的中します。1789年にフランス革命が勃発したのです。
王政を否定したフランス革命はハプスブルク家に大きな衝撃を与え、プロイセンとともにフランスに出兵(フランス革命戦争)します。しかし、その最中の1793年にルイ16世に次いでマリー・アントワネットも処刑されてしまいました。
●神聖ローマ帝国にとどめを刺したナポレオン
さらにフランスでは若き将軍ナポレオンがクーデターを起こしてトップとなり、様々な敵を蹴散らしていきます。オーストリアも完敗し、1806年、形式だけ残っていた神聖ローマ帝国はついに解体されることになりました。
それでも、ハプスブルク家はオーストリアの皇帝として持ちこたえます。そして、オーストリアを盟主とした「ドイツ連邦」という連合体を形成します。しかし、その行く末には暗雲が立ち込めているのでした。この続きは、最終回となる後編にて!
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