2019年12月18日

超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(前編)

habsburg01.JPGウィーンにやってきました。オーストリアの首都であり、音楽の都であり、何よりハプスブルク家の本拠地として発展した都市です。

写真はハプスブルク家唯一の女性当主だった
マリア・テレジアの像です。マリア テレジア広場にあります。

ハプスブルク家には1000年を越える歴史があり、語れば何冊もの本ができあがってしまうので、ごく一部のことにだけ触れてご紹介していきます。


●10世紀、歴史の表舞台に登場
962年、東フランクの国王オットー1世がローマ教皇より戴冠され、神聖ローマ帝国が誕生します。誕生に至るまでの経緯は以下の記事をお読みください。
 ・正教会3 「神聖ローマ帝国」という東側への対抗システム

時代が経つにつれ、帝国の中にオーストリア公国やボヘミア王国といった諸侯が治める国ができ、現代のオーストリア、チェコの原型となっていきます。

そして1273年、皇帝不在の「大空位時代」が続いた後、スイスの小貴族ルドルフ・フォン・ハプスブルクが皇帝に選出され、ルドルフ1世となります 。彼は拠点をウィーンに移し、以降ハプスブルク家によるオーストリア支配が始まるわけです。政治の中心ホーフブルク王宮(後編に写真)はこの当時からありました。


●結婚政策で領地拡大! 16世紀に全盛期を迎える
この後、神聖ローマ帝国皇帝の座を巡って複数の貴族が対立しますが、15世紀からはハプスブルク家が皇帝位を独占します

そして、子供たちをどんどん他家・他国に嫁がせる結婚政策を実施。以下の言葉が有名です。
――「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

16世紀、カール5世が皇帝となったときは神聖ローマ帝国(ドイツ)、オーストリアだけでなく、ボヘミア(チェコ)、ネーデルラント(オランダ)、ハンガリー、南イタリア、スペイン、新大陸まで領土を拡大。まさにハプスブルク家は世界を手中に収め、全盛期を迎えました。
 ・さかのぼりスペイン史5 太陽の沈まない帝国


●全盛期のハプスブルク家 VS 全盛期のオスマン帝国
ヨーロッパにはもはやハプスブルク家の敵なしかと思いきや、いましたよ。強敵が。それがフランスです。カール5世は生涯フランス国王フランソワ1世アンリ2世父子との戦争を繰り返しました。

当時、ヨーロッパではプロテスタントによる宗教改革が興り始めていましたが、カトリックの2大国家が対立していたことでその波は拡大していきます。さらに、このヨーロッパの混乱に乗じて超強敵が闘いを挑んできます。それがオスマン帝国でした。

率いていたのはオスマン帝国の全盛期を実現させた名君スレイマン1世。ハンガリー王国を撃破し、ヨーロッパへ深く侵入してくるオスマン帝国軍。そして1529年、ついに神聖ローマ帝国の首都ウィーンまで達し、2ヶ月にわたって包囲します。

ですが相手も全盛期のハプスブルク家。なんとか死守に成功し、オスマン帝国軍は撤退。九死に一生を得たヨーロッパですが、バルカン半島は奪われ、イスラム教オスマン帝国の脅威を十分に見せつけられた形でした


★関連記事
・超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介! 前編 中編 後編
中央ヨーロッパ史 年代別記事一覧
ブックレビュー一覧


ハプスブルク帝国 (講談社現代新書)

新品価格
¥693から
(2020/4/20 09:45時点)


posted by すぱあく at 14:00| オーストリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする