※名古屋市と南京市は交流停止状態だけど・・・(´д`ι)
とりわけ力を入れているのは茨城県です。なにせかつての水戸藩には、超重要な中国人がいました。
それは儒学者の朱舜水(1600〜1682年)です。
よく「水戸黄門」のモデルとなった徳川光圀が、日本ではじめてラーメンを食べたといわれることがありますよね。あの逸話の中で、光圀に中国麺を献上した人物、それが朱舜水というわけです。
茨城県では、徳川光圀と朱舜水の逸話を学術的にもシッカリ検証し、交流促進の起爆剤にしようと考えています。
ではまず、朱舜水がどんな人物だったのかを見ていきましょう。
1600年 朱舜水は明末の浙江省余姚に生まれます。
1609年 朱舜水が8才の時に父が死去したため、松江府(現上海市松江区)で明朝の武官だった兄をたより、余姚から松江へに転居しました。
1644年 李自成の乱により明朝が滅亡。さらに、満州族の清が李自成を討ち、中国支配を開始。
漢民族は支配される側に転落します。
同年 明の皇族らが華中、華南に亡命政権の「南明」をつくります。
明朝の復活を悲願とする朱舜水は海外交易を行い、軍資金の提供などで南明をバックアップします。
1659年 鄭成功、南京攻略戦で大敗。このとき朱舜水は復明はもうムリではないかと考え、長崎に亡命します。
この頃の日本は鎖国をしていましたが、明の滅亡によって中国から多くの文人が渡ってきていました。
1660年 筑後国柳川藩の儒官 安東省菴に援助され、逗留します。
1665年 水戸藩主の徳川光圀が朱舜水を招聘し、その後江戸に移住します。
江戸では光圀の別荘(現在の東京大学農学部)に住み、以後この地で生涯を過ごします。
※東京大学農学部には、「朱舜水先生終焉之地」の記念碑が建てられています。
彼の学風は、陽明学と朱子学との中間に位置する実学で、空論を避け、道理を重んじ、徳川光圀だけでなく、安積澹泊(あさか・たんぱく)、林鳳岡(ほうこう)、木下順庵らに大きな影響を与えました。
1682年 83歳で死去し、常陸太田の瑞竜山に葬られます。
死後『朱舜水先生文集』28巻が徳川光圀輯・徳川綱条(つなえだ)校として刊行されます。
さて、茨城県では、朱舜水研究をかなり熱心に行ってきました。そもそもの契機は、1978年の日中友好条約締結に伴う交流事業として、茨城大学と上海の復旦大学による共同研究でした。
1989年には復旦大学の教授ら4名が茨城大学へ学術訪問し、日本にある朱舜水関連の文献、写真を入手、中国へ持ち帰りました。その後、上海市文化局に呼びかけた結果、朱舜水記念館が1990年に設立されました。
※上海市松江区の方塔公園内にあります
昨年にはなんと朱舜水の子孫が茨城県を訪れ水戸徳川家の子孫と対面し、先祖の墓参りをしました。
水戸徳川家の招待で105年ぶり (2011年11月4日 読売新聞)
水戸藩2代藩主、徳川光圀が学問の師と仰いだ中国の儒学者、朱舜水がまつられている茨城県常陸太田市の国指定史跡「水戸徳川家墓所」に3日、子孫の朱育才さん(58)ら4人が105年ぶりに墓参した。水戸徳川家の招待で実現したもので、育才さんの弟、育成さん(54)は「長年の宿願を遂げることが出来て、とても感動した」と語った。
徳川ミュージアムによると、朱舜水は水戸徳川家の招きで来日し、1682年に江戸藩邸内で亡くなった。徳川一族以外で唯一、同墓所にまつられている人物という。
墓参では、浙江省人大代表(県議)を務める育成さんが、焼香をした後、祭文を読んで焼き、朱舜水の故郷である浙江省余姚市から持参した土を墓に添え、墓の回りに水をまいた。育才さんは同墓所の土を容器に詰めた。土は持ち帰り、余姚市内にある朱舜水の記念館と同市内の別の場所にある記念碑に添えるという。
育成さんは「茨城県の皆さんに余姚市を訪れてもらいたい。末裔(まつえい)として、家族のような友好関係を作れるよう努力していきたい」と語った。
水戸徳川家第15代当主の徳川斉正・徳川ミュージアム理事長は「来ていただいて本当に良かった。この先も墓を守り続けていきたい」と話した。
水戸黄門・徳川光圀と朱舜水の交流を町おこしに活用しようという動きもあります。その代表的なものがラーメン。水戸市では「水戸藩らーめん」というご当地ラーメンを作っています。古文書から当時のレシピを抽出し、地元のラーメン屋が集まって試行錯誤してつくった本格的なものです。レンコン粉を練りこんだ麺を使っているところなどが特徴的です。
ちなみに新横浜ラーメン博物館でも、徳川光圀が食べたラーメンの再現レプリカが常設されています。
1Fギャラリーにあるので、訪れた際は要注目です。
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