玄奘(げんじょう、602年〜664年)は中国・唐代の高僧で、三蔵法師として有名です。その玄奘の骨の一部は、なんと埼玉県にあるのです。ただこの手の話をすると、たいていは「よくあるトンデモ説の一種ね」と一蹴されてしまいます。たしかに、「日本にキリストの墓があった」といわれれば、トンデモ説と考えてしまいますね。しかし、今回の玄奘の場合は、ガチで本物の骨です。では、なぜ中国で没した玄奘の墓が日本にあるのでしょうか。
『西遊記』のモデルとなった天竺への冒険
子どもの頃に出家した玄奘は、神童と呼ばれるほど優秀でした。20歳を超える頃には、漢訳化された仏典はほぼマスターしてしまい、「原典から研究してみたい」と思うようになります。そして、「仏教が生まれた天竺(インド)に行くぞ!!」と心に決めます。
しかし当時の中国は、隋から唐に代わったばかりで国情が不安定のため、出国は禁止されていました。そこで、玄奘は命がけで密かに出国します。『西遊記』でよく知られる三蔵法師の天竺への冒険は、なんとスタートから命がけだったのです。
西安を出発した玄奘は、これまた命がけで西域の砂漠や山脈を抜けて、1年以上かけてヴァルダナ朝インドに到着します。そして、仏教研究の最高学府だったナーランダー僧院で学びます。インドで10年近く研究した後、大量の原典を持ち帰って、帰国の途につきます。
帰国後は、膨大な原典の漢訳化に励みます。その拠点になったのが、西安の大慈恩寺・大雁塔で、今も観光の名所です。そして664年に没します。
玄奘の骨の行方
当初、玄奘は西安の興教寺に葬られましたが、唐末期(10世紀頃)の農民蜂起によって寺は破壊され、遺骨もどこかへ消えてしまいました。この後の中国とくに北方は、異民族が支配する長い戦乱の時代になります。
こうしたなかでも玄奘の遺骨は寺の僧侶に運よく発見され、戦乱に巻き込まれないよう南京に移されました。
日本軍が発見し、持ち帰る
時代はぐーっと下って清代、1850年から10年以上にわたって太平天国の乱が起こります。この戦乱によって、また玄奘の遺骨は行方不明になってしまいます。
遺骨が不明になってから約1世紀、それを発見したのはなんと日本軍でした。日中戦争の最中、日本軍は中華民国の首都である南京を攻略します。1942年、日本軍が神社を建てるために地面を掘っていたら、玄奘の頭骨を収めた石棺を発見しました。
日本軍はこれを日本に持ち帰ろうとしましたが情報が漏れ、世論の非難を浴びます。その後、日中で議論した結果、分骨することで決着しました。
中国側は、北京の法源寺、南京の霊谷寺、成都の浄慈寺など数ヶ所に安置されています。
そして、日本ではさいたま市(旧岩槻市)の慈恩寺に安置され、後に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院にも分骨されました。
当時の日本は、人の国のものを持って帰ってきているわけですから褒められた行為ではありません。そして、今の中国は「当時の日本に奪われた」という主張で尖閣諸島などの問題を掘り返しているといえます。政治問題は政治家に任せるしかありませんが、私たち一般市民はあまり感情的にならず、こうした歴史的背景を知っておくことも重要ではないでしょうか。
画像:玄奘の銅像と大雁塔(中国・西安市) 撮影:正版甘泉
★外部リンク
・慈恩寺(さいたま市)
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7世紀のアジアのことがわかる非常に貴重な旅行記。玄奘が訪れた天竺を含む百数十の国のことが書かれています。この書がベースとなり、明代に『西遊記』が生まれました。
エンターテイメントを盛り上げようと実在・架空のいろんな人物を登場させているため、読んでいて消化不良を起こしてしまいます。歴史小説の悪い見本としてご一読ください。
ラベル:仏教