
現在放映中のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では、主な舞台が姫路城がある近畿地方になっています。官兵衛はこの地で頭角を現し、豊臣秀吉の軍師となり、彼の天下統一を後押ししていくのです。
では黒田官兵衛が、福岡県に舞台を移すのはいつ頃でしょうか。それには、まず彼と九州との関係から見ていく必要があります。
中津城主になる(大分県)
1582年、本能寺の変が起こり、織田信長は明智光秀によって討たれます。このとき官兵衛は秀吉の軍師として、ともに毛利輝元がいる中国地方を攻めていました。
官兵衛は秀吉に献策します。「まずは毛利輝元と和睦して大急ぎで引き返し、明智光秀を討ちましょう」と。これが官兵衛の策として名高い「中国大返し」です。この結果、秀吉の天下取りはイッ気に躍進しました。
その後は四国、そして九州を攻めることで関わりが深くなります。九州平定後の1587年、豊前国の中に領地が与えられ、中津城(大分県)を築城します。
名護屋城より朝鮮出兵(佐賀県)
1590年、秀吉の天下統一はあとわずかのところまで迫りました。最後の敵は、小田原城にいる北条氏政・氏直父子です。このとき官兵衛は、小田原城に入って彼らを説得し、無血開城を成功させています。これにより、秀吉の天下統一が実現しました。
その後、1592年から朝鮮出兵が始まります。官兵衛も拠点の名護屋城(佐賀県唐津市)を出発し、朝鮮に渡って戦闘を繰り広げました。この戦いは1598年まで続き、秀吉が派遣した日本軍は消耗するだけ消耗して帰国します。
しかし、この戦いでほとんど兵を出さずに、力を蓄えていた人物がいます。それが徳川家康でした。秀吉の死後、圧倒的な戦力を背景に家康は台頭。ついに、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
九州全域で大暴れ
官兵衛は徳川方につき、長男・長政(幼名は松寿丸。人質として信長に処刑されるところだった人物)を戦場に出します。しかし、このとき官兵衛は中津城にいました。
そして、家康が関ヶ原に集中している隙に、九州で大暴れして領地拡大を行いました。
九州を制圧した上で東上し、余勢を駆って家康と対決する構想を持っていたようです。しかし、関ヶ原の戦いはあっけなく家康の勝利に終わります。そして、家康は九州での戦いに対して停戦命令を出し、この構想は破れます。
官兵衛も家康にこれ以上疑いを持たれないよう、奪った領土を献上しました。
福岡藩の成立(福岡県)
関ヶ原の合戦の後、勲功として家康から長政に対し筑前国52万3千石が与えられ、福岡藩が成立します。
ちなみに「福岡」という地名は、黒田氏の発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市)から名付けられたと言われています。
初代藩主は長政ですが、官兵衛は藩祖として崇められています。この頃の官兵衛は、すでに隠居して太宰府天満宮内の草庵にいました。また、藩の居城である福岡城内三の丸に「御鷹屋敷」が完成すると、そこで妻幸円とともに静かに余生を送りました。
そして1604年、官兵衛は京都の伏見にある藩邸で息を引き取ります。享年59歳でした。
官兵衛、そして黒田家にまつわる資料は現在、福岡市博物館に所蔵されています。もちろん、時間をひねり出して行ってきました。そのレポートは次回。
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