さて、この近畿大学は設立の歴史を見ると、日本大学と関係があることがわかります。そして、その日本大学は國學院大學と若干のつながりがあります。この3大学のちょっとした関係を見てみます。
神道の教育機関・皇典講究所
1882(明治15)年、神道の研究・教育機関として皇典講究所が設立されました。脱亜入欧、富国強兵を目指していた明治新政府は、国家宗教として神道を大きく成長させようと考えます。そこで皇典講究所が作られ、神職の育成を行いました。そして1890年、さらに教育機関として「國學院」が設置されます。
しかし1945(昭和20)年、日本は敗戦しGHQの管轄下に置かれます。ここで国家神道は解体され、1946(昭和21)年に皇典講究所も解散します。とはいえ、事業と資産をすでに大学に昇格していた「國學院」が継承します。そして、日本で2つしかない神職を育成する大学として現在に至ります。
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皇典講究所からスタートした日本大学

日本法律学校も作ります。明治時代の法律学校といえば、ほとんどが欧米の法律を学んでいまいたが、ここは神道の研究機関らしく日本法律を学ぶ目的で創られました。なお、日本法律学校は開校当初、皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていましたが、皇典講究所と組織的に繋がりがあったわけではありません。あくまで山田の私塾的な存在でした。そんな山田を日本大学では学祖としています。
山田顕義はあまり有名な人物ではありませんが、彼も松下村塾で吉田松陰に師事した長州藩士です。2012年に日本大学がスポンサーになって、『知られざる幕末の志士 山田顕義物語』というドラマも放映されました。山田役は山田涼介(青年期)と渡哲也(晩年期)。
日本大学にルーツがある近畿大学

日本大学は、1925(大正14)年に現在の東大阪市に「日本大学専門学校」を設置します。これが後に日本大学から独立して「大阪専門学校」と改称します。1944(昭和19)年に世耕は「大阪専門学校」と「大阪理工科大学」の学長になり、1949(昭和24)年には両校を合併させて近畿大学とします。そして初代総長及び理事長に就任しました。世耕は設立当初から「日本人の学びの場を広めるため、医学部から文学部まで全学部揃えた大学にしたい」と考えていました。近畿大学がマンモス化の道を歩んできたのは、学祖の想いからといえます。
このようなルーツ話は、その大学に通っている学生やOBですら知らない人が多いものです。とはいえ、学祖たちがどんな思いで学校を創立したかを知ると、とても鼓舞されるものがあります。
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