琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』によれば、1166年に舜天(しゅんてん)と呼ばれる人物が誕生し、彼が最初の琉球王になったとされています。加えて驚くべきことに、舜天は、日本本土から逃れてきた源為朝の子であると述べられています。
もちろんこれは伝説であり、確証はありません。実際のところ源為朝は保元の乱で敗れ、伊豆大島に流刑にされました。そして、そこで亡くなっています。琉球まで逃れて、その子供が国王になるというのはファンタジーでしょう。
でも、日本本土とは異なる歴史・文化を自認する琉球の人々が、本土からやって来た人物をルーツとしていたことは興味深いです。このエピソードを掘り下げてみたいと思います。
源為朝ってどんな人?
源為義の八男で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父に当たる人物です。NHK大河ドラマ『平清盛』(2012年)にも登場しました。演じたのは橋本さとし。180cmを超える巨体が放つ矢はミサイルのような破壊力を持つ劇中最強の人物です。
史実でも身長は2mを超えた強弓の使い手でした。勇猛で傍若無人、暴れまくったのちに、父・為義から勘当されて九州に追放されます。当時の九州は鎮西(ちんぜい)と呼ばれ、そこでも暴れまくったので鎮西八郎とう名で人々から恐れられていました。
そんな中、都である京都では即位したばかりの後白河天皇とその兄である崇徳上皇の二派が対立し、保元の乱(1156年)が勃発します。
戦になる動きが出始めた頃、父・為義は為朝の勘当を解いて鎮西から都に呼び寄せます。その凄まじい武力を必要としていたからです。
後白河天皇の側には、関白・藤原忠通、源義朝、平清盛らがつきました。
崇徳上皇の側には、左大臣・藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正らがつきました。
これを見るとわかるのですが、天皇家も藤原摂関家も源氏も平氏も、親兄弟が分裂して争いました。大河ドラマでも、一族同士で争う苦悩が描かれました。
結果的に、後白河天皇の側が勝利し、敗北した崇徳上皇は讃岐に流罪になります。父・為義は斬首されましたが、為朝は武勇を惜しまれて助命され、伊豆大島への流罪ということになりました。
しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆大島を事実上支配してしまいます。朝廷もさすがに黙ってはおらず、追討軍を出しました。このときも強弓で追討軍の船を沈めてしまうほどの勇猛ぶりを発揮します。それでも最後は力尽き自害。1170年、享年32歳でした。
滝沢馬琴によって読本化
今では源氏の悲劇のヒーローといえば源義経ですが、江戸時代では源為朝の人気もすごかったのです。
この人気の火付け役となったのが、『椿説弓張月』(ちんせつ ゆみはりづき)。
『南総里見八犬伝』で有名な滝沢馬琴が1811年に完成させた読本です。彼は、当時から伝わっていた為朝が琉球にわたったという伝説に『水滸伝』などを参考にして脚色し、アクションあり、美しい白縫姫(しらぬい ひめ)とのラブロマンスありの壮大な物語にしたのです。物語では為朝は白縫姫と結婚し、舜天が生まれます。これが後の初代琉球国王です。
朝廷の権威をもろともしない源為朝の勇猛ぶりに、江戸の庶民は酔いしれました。源義経も奥州で死亡せず、モンゴルにわたってジンギスカンになったという伝説が生まれましたが、こちらも同様。日本人は敗軍の将にホロッと来ちゃうようですね。
この読本のヒットにより、葛飾北斎や歌川国芳らによって浮世絵も多数作られました。こうした動きは、マンガがヒットすれば、アニメ化、ドラマ化、舞台化と広がっていく現代と同様です。
さて、『椿説弓張月』は今では歌舞伎の演目になっていますが、実際に舞台化されたのはつい最近のこと。しかも、あの三島由紀夫によって舞台化されました。このとき、美しい白縫姫を演じたのは、当時は無名だった坂東玉三郎。三島の肝入りで抜擢された玉三郎の見目麗しさは絶賛され、今日に続く人気の足掛かりとなったのです。
★関連記事
・日本史 年代別記事一覧
・大河ドラマレビュー一覧
・都道府県別記事一覧