2014年01月25日

李嘉誠の登場 ― 香港の歴史が変わった瞬間

香港は1842年にイギリスの植民地になってから、イギリス系企業によって開発が行われ、香港経済は彼らによって独占されてきました。中でも香港開発の最前線にいたジャーディン・マセソンは、最大の企業グループとして成長していました。

「イギリスによる香港支配」という構図は半永久的に続くと思われていましたが、70年代そうした常識をぶち壊すとんでもない人物が現れます

likasei.jpgそれが李嘉誠(り かせい、1928年〜:現85歳)、長江実業の創設者で現会長です。

1979年、当時51歳だった李嘉誠は、映画やマンガのような「奇跡」をやってのけます。なんと、ジャーディン・マセソンと並ぶ、イギリス系コングロマリットの
ハチソン・ワンポア(和記黄埔)の買収を成功させたのです。

支配されていた側の中国系企業が、はるかに格上で支配していた側のイギリス系コングロマリットを買収。この出来事によって、香港は急速に変質していきます。
イギリスの影響力が低下し、逆に“中華世界”が覚醒していくのです


貧困から成功を果たした李嘉誠
中国広東省潮州に生まれた李嘉誠。彼の幼少期は、まさに日中戦争のまっただ中でした。12歳のとき、戦火から逃れるために家族は香港に移住しました。しかし、14歳のときに父親が肺結核で死亡してしまいます。李嘉誠は母親や幼い兄弟を養うため、高校を中退してプラスチック工場のセールスマンになり生活費を稼ぐことになりました。

彼のセールスマンとしての実力はとても優秀なもので、2年後には工場の責任者になっていました。プラスチック加工とマーケットの知識を身につけた李嘉誠は、1950年、22歳で独立し、小さな町工場でプラスチック玩具と家庭用品の生産をはじめます。

欧米でプラスチックの造花が流行し始めると、李嘉誠はこのチャンスを逃さず、プラスチック造花の大量生産を開始し欧米に輸出しました。「ホンコンフラワー」と呼ばれたプラスチック造花は、たちまち香港の代業的な輸出商品となり、事業は大成功。現在の大実業家の基礎を築きました。

しかし、李嘉誠はこの成功に安住することはありませんでした。彼は貧困と成功の過程の中で、一歩先、二歩先を読むことの重要性を身に付けていたのです。「南方週末」のインタビュー記事では、以下のように述べています。
「わたしは他の企業にも関心を向け、それらの年報を読み込むなど数字はほとんど記憶してきた。また、現時点の儲けばかりでなく、さまざまなニュースやデータを分析して、1年後、2年後など近い将来の経済情勢を思い浮かべるようにしてきた」

そして、次の一歩として不動産事業へ転換を図り、この分野でも成功を収めます。1972年には長江実業を上場させ、中堅不動産企業としての地位を固めていきました。


李嘉誠 VS ジャーディン・マセソン
それでも、李嘉誠の“進撃”は止まりません。次に彼が目を付けたのは、香港経済を独占してきたイギリス系企業でした。彼らはイギリス政府の権益に守られ、長く競争にさらされていなかったため、経営体質が旧態依然で資金難に陥っている企業が多かったのです

李嘉誠の長江実業は、イギリス系企業を相次いで買収。そして、1979年、超名門のハチソン・ワンポアの買収に成功し、イッ気に躍進します。

そして、ついに李嘉誠はナンバーワンのジャ−ディン・マセソンにもガチバトルを挑みます
1988年、中国系企業と共同で、ジャ−ディン・マセソンの傘下にあるホンコンランド(香港置地)に買収攻勢を仕掛けたのです。結果的にこの買収は成功しませんでしたが、彼らに巨大な精神的ダメージを与えました。

ジャ−ディン・マセソンはグループ企業の多くを香港から撤退させ、敵対的買収から身を守るため上場市場も香港からシンガポールに移したのです。

こうして、80年代末から長江実業はジャーディン・マセソンを抜き、香港ナンバーワンの企業グループとなり、今もその地位を堅持しています

李嘉誠自身も今では、世界8位、中華圏ではダントツナンバーワンの大富豪です


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posted by すぱあく at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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