27歳で科挙に合格し進士となり、地方官を歴任します。地方では善政を行い、その手腕は今でも高く評価されています。林則徐は、地方でもアヘンによる社会の荒廃を目の当たりにし、取締りの強化を道光帝に進言します。
道光帝はこれを評価。彼を欽差大臣(特命大臣のこと)に任命し、アヘン貿易の震源地である広州に派遣します。
広州に到着した林則徐は、容赦なくアヘン密輸を取り締まります。没収したアヘンはすべて処分。さらに、「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書を提出させ、「持ち込んだら死刑」と通告しました。
林則徐は、ジャーディン・マセソン商会にも直接対峙します。このとき、彼が英語とポルトガル語によって警告してきたことに驚きます。やはり、科挙に合格するほどの天才。西洋の文化や言語にも関心を持ち、吸収していたのです。
当時の列強諸国は、中国を含めたアジアを完全に見下していました。ところが、そこに現れた林則徐は堂々としていて揺るがず、初めて驚異というものを感じたのです。
そして、ウィリアム・ジャーディンは一度、ロンドンに引きます。初戦は林則徐の勝利でした。
ウィリアム・ジャーディン、ロンドンでロビー活動を展開
ウィリアム・ジャーディンは、このとき55歳。彼は、ただロンドンに引いたわけではありませんでした。大英帝国の戦力を以って、清朝に圧力をかけることを要請することが目的だったのです。
ジャーディンはイギリス議会を説得するため、後に「ジャーディン・ペーパー」と呼ばれる詳細な計画書を提出します。
この計画書では、以下に言及。
1 林則徐が押収した2万ケースのアヘンの完全補償
2 事態の深刻化を避けるための通商条約締結
3 福州・寧波・上海・アモイなどの開港 (広州や香港も占領する必要性あり)
さらに・・・
・戦況を有利に進めるために、関連地域の海図も提出。
・「正式な購買など不要、退屈な交渉も不要」と強調。
・「清朝では海賊から身を守ることができないが、我々にはできる。
我々が清朝に駐留することこそWinWinだ」と最もらしい理屈を述べる。
超強引な主張ですが、ある意味“非の打ち所のない計画書”のため、議会はザワつきます。
実は、戦争反対派も結構いました。なにせ、戦争をする理由が「アヘン密輸を再開するため」です。
人道上認められないとする清教徒の議員もいたのです。後に首相となるウィリアム・グラッドストンらは「不義の戦争」と批判しました。それでも、賛成271票、反対262票の僅差で開戦が承認され、
イギリス海軍は中国に向けて派遣されます。1840年、阿片戦争の勃発です。
首都北京に迫る大英帝国艦隊!!
アジアでは無敵だった清朝も、大砲を積んだ軍艦16隻、輸送船27隻を率いた大英帝国の前では話になりません。
大英帝国艦隊は、兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、首都北京に近い天津に入りました。
これに驚いた道光帝は狼狽し、降伏を重視した一派の意見を採用します。
これにより林則徐は解任され、新疆に左遷されてしまいます。
1842年、両国は南京条約に調印し、阿片戦争は終結しました。
この条約で清朝は多額の賠償金と香港の割譲、広東、アモイ、福州、寧波、上海を開港するはめになりました。
香港がイギリスの植民地になったのは、実にこのときから。以来、1997年に返還されるまでイギリス領としての歴史を歩むことになります。
ジャーディン・マセソン商会にしてみれば、まさにしてやったり。以後、中国そして日本で大きな影響力を及ぼしていきます。そして、その影響力は今日においても健在です。
左遷された林則徐はどうなったのか?
新彊という辺境に左遷されてしまった林則徐でしたが、腐ることなく農地改革を行い、善政を布いたことで領民たちから慕われました。加えて、地理的に近いロシア帝国を脅威と考え、その対策も考えていました。
その後は引退しますが、1849年、64歳のときに「太平天国の乱」が勃発すると召し出され、再び欽差大臣に任命されます。そして任地に赴く道中で病死しました。
清廉潔白の人柄で、左遷されても常に国家や領民のことを考え続け、その姿勢は今も尊敬を集めています。
彼の出身地である福建省福州市には「林則徐記念館」が建てられ、彼の功績を称えています。
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登場人物として林則徐、ウィリアム・ジャーディン、ジェームス・マセソンらが登場。
ジャーディンらは典型的な悪い商人として描かれています。