1802年、18歳のスコットランド人がイギリス東インド会社の船に船医として乗船しました。
彼の名は、ウィリアム・ジャーディン(1784年〜1843年)。
後にジャーディン・マセソン商会を創業する人物です。
世界中をまたにかけて大貿易を展開することになるジャーディン・マセソン商会。どんなビジネスマンが創業したのかと思えば、なんと船医とは。とても、数奇なものを感じます。
このときのジャーディンは、スコットランドの名門エディンバラ大学医学部を卒業したばかり。彼の家は小さな農家で、9歳のときに父が死去。そのため、家計は困窮していました。そこを兄が支え、ジャーディンの学費も捻出したのです。
彼が医者でありながら、貿易に興味を持つようになったのも、こうした背景があったと思われます。
イギリス東インド会社では、給料の他に個人貿易の内職が許されていたので、ジャーディンはせっせと蓄財に励みました。
33歳のときにイギリス東インド会社を退職。インドや中国で、貿易商としてのキャリアを重ねていきます。
34歳のとき、14年後にともに会社を創業することになるジェームス・マセソンと広州で出会います。
ジェームス・マセソン(1796年〜1878年)はエディンバラ大学を卒業後、インド・カルカッタにある叔父の貿易商会で働き始めましたが、後に倒産。その後は、中国広州に渡り、アヘン貿易で一財産を築きます。当時の中国は清朝で鎖国を行っていましたが、広州だけ開港していました。長崎の出島のようなものです。
22歳のとき、広州でウィリアム・ジャーディンに出会います。マセソンは彼より12歳年下ですが、同じスコットランド出身で、大学も同じ。きっと気が合ったのだと思います。
いっしょに会社を興すのは、この出会いから14年後ですが、2人は早期からいっしょに事業を行っていました。
24歳のとき、イギリス人なのにデンマーク駐広州領事に就任。当時はこういうヘンテコなことが普通に行われていたようです。
30歳のとき、広州で英字新聞『カントン・レジスター(広州紀録報)』を創刊。アヘン相場などを掲載したもので、中国で発行された英字新聞の中で最も古いものの一つです。
1832年、2人でジャーディン・マセソン商会を広州の沙面島に設立。ウィリアム・ジャーディンは48歳、ジェームス・マセソンは36歳のときでした。
インドから清へのアヘンの密輸、清の茶と絹をイギリスに輸入、その他あらゆる貿易業務を行いました。事業は大当たりし、ナンバーワンの商社となります。
しかし、彼らの成長を見逃せない立場にあったのが清朝でした。ジャーディン・マセソン商会はアヘンをインドから輸入した際、清朝の銀を払っていました。おかげで、大量の銀が国外に流出。貨幣価値が乱高下する危険性が高まっていたのです。
加えて、国内にアヘンが大量に流入したせいでアヘン中毒者が続出し、大問題に発展していました。当然、清朝はアヘン貿易の取締りを強化します。
これに反発するジャーディン・マセソン商会。彼らの対立は後に、国家間の戦争にまで発展していくのです。
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2014年01月14日
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