
人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は
★歌意
ある時は人がいとおしく、またある時は人が恨めしく思われる。おもしろくないものとしてこの世を思うために、さまざまな物思いをするこの私の身には。
★解説
「人もをし」→「をし」は「愛し」と書き、いとおしいの意。
「あぢきなく」→おもしろくないの意。
「世を思ふゆゑに」→この世をつまらなく思うために。
「物思ふ身は」→さまざまに世間の雑念にとらわれるこの身には。
悶々とした心情が歌われているこの作品は、承久の乱を起こす9年前に詠んだもの。このとき後鳥羽院は33歳。鎌倉幕府との対立が激化し、おもしろくないことが多い日々だったことがわかる。
★人物
後鳥羽院(後鳥羽天皇)(ごとばてんのう、1180年〜1239年)
第82代天皇。高倉天皇の第四皇子。異母兄の安徳天皇(平清盛の孫)が平家一門とともに壇ノ浦にて入水。平家の滅亡が決定的だったこともあり、安徳天皇が退位する前に後白河法皇によって4歳で即位しました。
19歳で譲位し、以後3代23年間にわたり上皇として院政を行いました。鎌倉幕府には不満があり、源頼朝の死後も強硬な路線をとりました。そして、ついに承久の乱(1221年)を起して討幕を計画。しかし、幕府の大軍に完敗し、隠岐の島に流刑となり、19年後にそのまま死去します。
これだけ見ると武闘派のイメージがありますが、中世屈指の歌人でもあり、その作風は後世に多大な影響を与えました。日本を代表する勅撰和歌集である『新古今和歌集』、その撰集を命じたのはこの後鳥羽院です。
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