
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ
★歌意
夜のまだ深いうちに、鶏の鳴き声をまねて、(関所の門をあけさせようと)だましても、(函谷関ならともかく)決して(私たちの逢う)逢坂の関は許しますまい。
――だまそうとなさっても、私は決してあなたの言葉にはのりませんよ。
★解説
「夜をこめて」は、「夜であることを隠して」の意。
「鳥のそら鳴はかかるとも」は、「鳥の鳴き声をまねしても」の意。これは『史記』(司馬遷)に出てくる中国・戦国時代の故事を踏まえての表現なので、説明を加えます。
斉の孟嘗君(田文)が秦に使いに出たとき、捕えられて殺されそうになりました。そのとき奇策を用いて逃げ出し、やっとのことで函谷関(現在の河南省)に着きました。しかし、この関所は一番鶏が鳴かないうちは開かない規則。そこで、部下の中で鳴きマネのうまい者に命じたところ、門番はまんまと勘違いして関所を開け、孟嘗君たちは無事にピンチを切り抜けました。
孟嘗君は日頃から、盗みやモノマネが得意なものを部下に入れていました。この故事から、「人には使いようがある」という「鶏鳴狗盗」(けいめい くとう)という成語が生まれました。
この故事成語を踏まえて、「函谷関ならともかく、私たちの逢う『逢坂の関』は開きませんよ」と歌っているわけです。漢文・漢詩の才能がなければ作れない歌のため、いかに清少納言が才女だったかがわかります。
なお、百人一首の中に「逢坂の関」をテーマにした歌は多く、蝉丸(10番)、三条右大臣(25番)を含めて3首あります。滋賀県大津市には「逢坂の関記念公園」があり、この3首の歌碑が建てられています。
★人物
清少納言(せいしょうなごん、966年頃〜1025年頃)
著名歌人だった清原元輔(42番)の晩年の娘。曽祖父・清原深養父(36番)も著名歌人。
981年頃、陸奥守・橘則光と結婚し、翌年に橘則長を授かります。しかし、武人で歌の教養が乏しい夫とは反りが合わず、やがて離婚します。後に、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけます。
993年頃から、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、その才気で宮中で有名人になります。彼女が宮中で見聞きしたことを随筆としてまとめたものが『枕草子』。1000年経っても色褪せない名著です。
晩年は亡父元輔の山荘があった辺りに住み、藤原公任(55番)ら宮廷の元同僚や、和泉式部(56番)・赤染衛門(59番)ら中宮彰子付の女房たちと交流していたとされています。
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