大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立
★歌意
大江山を越えて行き、生野を通って行く道が(都からは)遠いので、まだ(母のいる)天の橋立を踏んで見たこともなく、もちろんまだ(母からの)手紙も見ていません。
★解説
「大江山」は現在の京都市西北部にある大枝山。
「いく野」は京都府福知山市にある生野。「行く」との掛詞になっています。
「天の橋立」は日本三景の一つで、京都府宮津市の宮津湾にある砂州(さす)のこと。
歌の解説は下記の人物欄にて。
★人物
小式部内侍(こしきぶ の ないし、999年頃〜1025年)
父は橘道貞、母は和泉式部(56番)。母と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕しました。そのため、母式部と区別するために「小式部」という女房名で呼ばれるようになりました。
母はの和泉式部は、和歌の才能と恋愛の奔放さは突出していました。橘道貞と離婚後は、さまざまな男性と恋愛を繰り返していきます。相当目立った存在だったと思われます。そのため、小式部内侍は周囲から母と比較されていたようです。和歌の才能も母譲りで優れていたにも関わらず、周囲からは「どうせ母が代作しているんだろう」と思われていました。
あるとき、京都で歌合が開催されました。そのとき出場していた小式部内侍に、藤原定頼(64番)がいじわるな質問をします。「もうお母さんのところには使いを出しましたか?」と。
このとき、母・和泉式部は、再婚した夫・藤原保昌の任国である丹後(京都府北部)にともに下っていました。つまり、「代作頼むために、お母さんのいる丹後に使いは出しましたか?」といういじわるだったわけです。いつの時代にもいるんですねぇ〜、こういう人。
そこで、応酬したのが表題の歌です。
「母がいる丹後には天橋立がありますね。でも、私一度も見たことがないんですぅ。もちろん母からの手紙なんてのも見てませんわよ」と。
掛詞や縁語、地名が巧みに利用されたこの歌の完成度は凄まじく、いじわるした定頼はもとより、世間のウワサも吹っ飛ばしてしまいました。
その後、25歳という若さで死去。母・和泉式部よりも早い死でした。
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