このときの卒業生で最大級の人物が周恩来(1898年〜1976年)です。現在、南開大学には大きな周恩来像や記念館があります。
さて、1972年に周恩来首相と田中角栄首相によって、
日中共同声明が調印され、日中国交正常化が実現したことは有名ですが、
実は周恩来は青春期に日本に留学していたんです。
そして、当時の彼の心境、日本の様子がよくわかる貴重な史料が
周恩来『十九歳の東京日記』です。
1917年、19歳の若き周恩来は天津の港から東京へ向けて出発しました。日本に留学し、一高(東京帝国大学の予科)合格を果たすためです。
当時の南開学校には、中学校以上の高等教育課程がなく、成績優秀者は日本留学を志す学生が多くいました。
周恩来も成績優秀者の一人で「特等」で卒業したほどの秀才でした。
また写真の通り、眉目秀麗の美青年でした。
当時の中国は、列強諸国によって翻弄された混乱の時代でした。
1912年、孫文の辛亥革命によって清朝は滅亡し、中華民国が建国されました。しかし、袁世凱が皇帝を名乗って孫文と対立するなどまったく一枚岩ではなく、袁世凱死後も民国政府は全土を掌握する力はなく、各地が勝手にやっているという状態でした。
さて、私も長く関わってきた神田神保町(千代田区)。この界隈こそ周恩来の東京生活の拠点でした。
彼の足跡が偲ばれるものもいくつか残っています。
そのひとつが、愛全公園(千代田区神田神保町2-20)にある記念碑で「周恩来ここに学ぶ」とあります。かつて、ここには「東亜高等予備学校」があり、日本に来たばかりの周恩来はここで日本語を学んでいたんですね。近くの明治大学にも通っていました。
また、今も残る中華料理店『漢陽楼』(食べログ)には足しげく通っており、店内には当時の様子を知る資料が豊富にあります。
この日記を読むと、朝寝坊したり、勉強をサボったり、なかなか点数が上がらなくて自暴自棄になっている様子が書かれています。
今や伝説的な指導者として語られる周恩来も、この頃は普通の若者と同じく悩んだり、失敗していたんですね。なんか親近感がわきますね。
そんな周恩来、結局は一高受験に失敗してしまいます。日本語で受験しなければならないハンデ、奨学金がないための生活苦、大正モダニズムを迎えて浅草・銀座などに華開いた映画・オペラ・芝居・デパートといった眩しいまでの娯楽、そうしたものが周恩来の勉学を妨げたことが伺えます。
しかし、何より彼を苦悶させたのは国を憂う心でした。1918年1月23日、日記の中でこう記しています。
今朝、『朝日新聞』に載っている日本の昨日の国会の事情、各党派の質問の様子、寺内内閣の各大臣の演説を見て、大きな感慨を催した。わが国は現在まだ国会がなく、臨時参議院は問題にならないので、結局、絶対に解散すべきである。将来の政局は、新国会であれ、旧国会であれ、いずれにせよ能なしである。人民の水準、常識がこんな調子で、どうして優秀な国会など持つことができよう。仕官する者で、真に国のためを思っている者が何人いるだろう。考えれば、実に恐ろしいこどだ。
憂国の念が片時も離れず、勉強に手がつかない。そんな感じが伝わってきます。
そうした思いに導かれて、周恩来は日本留学中にマルクス主義に傾倒していきます。
「中国共産党の周恩来」の原型は、日本でできたんですね。
そして1919年、母校の南開学校が大学部を創設するということを知り、帰国を決意します。
帰国前の最期の思い出に訪れたのが、京都・嵐山でした。
そこで、あの有名な漢詩「雨中嵐山」を詠います。亀山公園(京都市右京区)にはその漢詩を刻んだ石碑があり、中国の要人や観光客が訪れる定番スポットになっています。
雨中二次遊嵐山, (雨の中を二度 嵐山に遊ぶ)
両岸蒼松,夾着幾株桜。 (両岸の青松は桜花もまじえ)
到盡處突見一山高, (道の尽きる処 高山を見る)
流出泉水鵠@許, (湧き出る泉は緑に映え)
繞石照人。 (石をめぐりて人を照らす)
瀟瀟雨,霧濛濃, (瀟々たる雨 濛々たる霧)
一綫陽光穿雲出, (一筋の日の光 雲間より射し)
愈見嬌妍。 (ますますなまめかし)
人間的萬象眞理,愈求愈模糊, (人の世のもろもろの真理は模糊たるも)
模糊中偶然見着一點光明, (模糊たる中に一筋の光を見るは)
眞愈覺嬌妍。 (ますますなまめかし)
詩の最後の部分である「模糊たる中に一筋の光を見る」は、マルクス主義に出会えたことの比喩と言われています。
帰国後の周恩来は理想に燃え、五・四運動を皮切りに学生運動のリーダーとなって頭角を現していくのでした。
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