2012年12月26日、第2次安倍内閣が発足しました。
安倍晋三首相(第90代、96代)は、岸信介首相(第56〜57代)の孫で3世議員、つまりは世襲議員です。
世襲議員はこの衆院選でも多く当選しました。2世、3世はおろか、小泉進次郎氏のように4世議員もいます。
もっとスゴイのは、麻生太郎氏(今回は副総理兼財務相・金融相、第92代首相)です。
麻生太郎氏が吉田茂首相(第45、48〜51代)の孫ということはよく知られていますが、実は大久保利通の玄孫(やしゃご)でもあります。すると5世議員ということになります。
こういうのを知ると、日本も「見えない階級社会」なんだなぁと思ったりもします。
しかし、日本には「5世じゃ、まだまだひよっこだよ」という超名門が存在するのです。
それは、日本史の教科書にもよく登場する藤原氏です。
???藤原氏って・・・、藤原さんの他、「藤」の字が付く佐藤さん(苗字日本一)、加藤さんといった方々ですかね? たしかに、彼らは藤原氏の末裔か、ゆかりのある家と思われますが、数が多すぎて「超名門」という感じではないですね。
実は、藤原氏の嫡流は鎌倉時代以降、「藤原」とは名乗らずに、
「近衛」(このえ)、「鷹司」(たかつかさ)、
「九条」(くじょう)、「二条」(にじょう)、「一条」(いちじょう)を名乗りました。
五摂家と呼ばれる彼らこそが、藤原鎌足を祖として1300年間、日本の上流で踏ん張っている「超名門」といえます。
たしかに、「近衛さん」とか「鷹司さん」とかは同じクラスにいませんでしたね。フツーの公立中学校に通っていたり、お母さんがパートでレジ打ちしているイメージはありません。きっと、今でもやんごとない一族なんだと思います。
それでは今回は、始祖である藤原鎌足から現代まで続く、藤原氏の系譜を見ていきたいと思います。
●始祖、藤原鎌足(614年〜669年)
日本人なら一度は聞いたことがある「大化の改新」。645年、中臣鎌足(なかとみ の かまたり)と中大兄皇子が協力して蘇我入鹿を倒し、その後さまざまな改革を実施した出来事です。中大兄皇子は天智天皇となり、中臣鎌足は功績を評価されて藤原姓を賜りました。ただ、藤原姓を賜ったのは、実は死去してからです。


●二代目、藤原不比等(659年〜720年)
鎌足の次男・不比等(ふひと)から藤原姓を名乗ります。672年、壬申の乱が起こって朝廷は大混乱になったため、父・鎌足のときの功績はリセットされてしまい、若い頃の不比等はそこそこ苦労します。
しかし、その後は皇室との関係を深めて出世します。阿修羅像で有名な興福寺(奈良市)は不比等が建立した藤原氏の氏寺です。
・チーム八部衆で一人だけ有名な阿修羅
●三代目、藤原四兄弟
藤原四兄弟は藤原不比等の4人の息子のことで、彼らが藤原氏の権勢の基礎を固めます。
・藤原武智麻呂(むちまろ、680年〜737年) 藤原南家開祖
・藤原房前(ふささき、681年〜737年) 藤原北家開祖
・藤原宇合(うまかい、681年〜737年) 藤原式家開祖
・藤原麻呂(まろ、695年〜737年) 藤原京家開祖
彼らはそれぞれ藤原四家(南家・北家・式家・京家)の開祖となります。このうち藤原北家がもっとも栄えます。ちなみに、兄弟が4人とも同じ737年に亡くなっているのは、この年に天然痘が大流行したためです。
●藤原北家の全盛を築いた藤原道長(966年〜1028年)
娘を天皇に嫁がせて天皇の外戚となり、官職の最上位といえる摂政関白となって権勢を振う、
これを「摂関政治」といいます。このやり方で藤原北家の全盛を築いたのが藤原道長(みちなが)で、
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は 自分のためにあるようなものだ 満月のように 何も足りないものはない)という歌を詠んだほどでした。
●近衛家の成立
栄華を極めた藤原摂関家も次第にその力を落とし、平安末期に起こった保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)を経ると平清盛が率いる平家が台頭してきます。時の摂政関白太政大臣・藤原忠通はそれまで見下していた武士・平清盛に、最終的には恭順。息子の基実と清盛の娘を結婚させて、平家と縁戚関係を結びます。
この藤原基実(もとざね、1143年〜1166年)から近衛姓を名乗り、近衛家が成立。基実は、朝廷で平家の後ろ盾となり、平家の発展に一役買いますが、24歳の若さで亡くなってしまいます。ちなみに基実は、NHK大河ドラマ『平清盛』(2012年)で登場しています(演:村杉蝉之介)。
近衛家を含む五摂家は公家の最高格式として継承されていきます。しかし、鎌倉時代からは武家による支配がはじまったので、公家とはいえ細々と生きてきました。政治面で目立つことはなく、学問や文化の世界で生きてきました。
●表舞台に登場した近衛文麿(1891年〜1945年)

第1次近衛内閣のときに、盧溝橋事件(1937年)が起こって日中戦争に発展しましたので、もしかしたら中国の教科書では大悪人のように書かれているかもしれません。
彼自身は早期の終戦を考えていたようですが叶わず、終戦後はGHQから戦争犯罪容疑をかけられたため、服毒自殺をしました。
●現代の近衛家
近衛文麿には文隆(ふみたか、1915年〜1956年)という長男がいましたが、太平洋戦争中は陸軍中尉でした。彼は満州で終戦を迎え、そのときソ連軍に攻撃されシベリアに抑留され、そのまま収容所で死去します。彼は結婚していましたが子供がなかったため、近衛文麿の孫にあたる細川忠W(ほそかわ ただてる、1939年〜)を養子に迎えます。この近衛忠W氏が、現在の近衛家当主なのです。日本赤十字社社長という立場でもあり、同社サイトにお写真が載っています。祖父の近衛文麿にそっくりです。
●細川護熙の凄すぎる血筋

また、後陽成天皇(1571年〜1617年)の14世孫にあたり天皇家の血も継いでいます。さらに熊本藩細川家の嫡流であるため、戦国時代の細川幽斎や、その息子・細川忠興と妻である細川ガラシャの子孫でもあります。なお、細川ガラシャの父は明智光秀です。
つまり、細川護熙氏は天皇家、藤原氏、細川氏(本姓は清和源氏)の血を引いているわけで、
日本史のロイヤルストレートフラッシュといえるほど、“反則級の血筋”というわけです。
以上、現代まで続く藤原氏の系譜を見てきました。彼らは間違いなく日本の上流に位置する一族ですが、長い武家政権のなかでは細々と生きてきた感じがします。ですから、日本の上流に「君臨している」というよりは、「踏ん張っている」という表現が適していると思います。
現代でも金持ちの度合いで言ったら、ソフトバンクの孫正義社長の方がきっと金持ちでしょう。しかし、彼らには1300年の歴史の重みと凄みがあります。「歴史が服を着て歩いている」、まさにそんな方たちです。
最後に、今回の登場人物たちの系図を載せます。細川護熙氏の血筋の凄さが理解できると思います。

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