2012年09月01日

百人一首7 日中交流の巨人、阿倍仲麻呂

nakamaro.jpg阿倍仲麻呂は百人一首7番歌の歌人ですが、彼の紹介は別格扱いになるほど驚くべき一生を送っています。

遣唐使として中国に渡った後、超ウルトラ難関の官吏登用試験である「科挙」になんと合格。唐の皇帝である玄宗に厚く信頼されるほどの官僚として活躍しました。
合わせて文学的才能も突出しており、李白や王維という中国史に燦然と輝く詩人のビッグネームたちと交流を重ねました。

今の感覚で例えれば、留学先のアメリカで官僚試験に合格しホワイトハウスで働きながら、同時にビルボード・ヒットチャートにランクインするほどのミュージシャンとしても活躍。オバマ大統領はもとより、マドンナやクインシー・ジョーンズらとも交流を重ねる、といった感じでしょうか。
そんな人いませんよね。あり得ませんよね。でも、そういう人だったんですよ、阿倍仲麻呂って。

そんな超有能な彼も、日本に帰国したいという願いはかなわず、中国で没しました。
しかしながら、彼ほどの人物が唐朝にいたことで、当時の日本の文化導入は飛躍的に進んだと考えられます。
まさに、日中交流の巨人。領土問題で緊張する今の日中関係にあって、どう外交を進めていいか、誰もが決め手を欠いています。こんなとき阿倍仲麻呂がいたら、きっと快刀乱麻を断つかのように事態を進展させてくれたでしょう。

では、まずは百人一首の歌から見ていきます。
天の原 ふりさけ見れば
 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

★歌意
大空を仰ぎ見ると、(この異国の空に)月が美しく照り輝いている。あの月は(日本の)春日にある三笠の山に出ていた月なのだなぁ。


★解説
mikasa.jpgこの歌の出典である「古今集」の注釈では、仲麻呂が唐に来てから30年余りして、いよいよ帰国することになり、唐の人々が明州(今の浙江省寧波市)の浜辺で送別会を催してくれたときの作品であると説明しています。
故郷の日本をどれほど懐かしんでいるかが伺える歌です。


仲麻呂は大和国(今の奈良県)出身。
彼が詠んだ「三笠の山」は、現在では御蓋山(みかさやま)もしくは春日山と呼ばれており、春日大社(奈良市)の東側にあります。ややこしいことに、現在、三笠山と呼ばれているのは若草山とも呼ばれており、別の山です。

さて、実はこの歌は中国語、つまり漢詩(五言絶句)によるバージョンも残っているのです。
tinko.jpg翹首望東天  (首を翹げて東天を望めば)
神馳奈良邊  (神(こころ)は馳す 奈良の辺)
三笠山頂上  (三笠山頂の上)
思又皎月圓  (思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを)

この詩は現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と、江蘇省鎮江市にある北固山の歌碑に刻まれています。伝説では、仲麻呂は鎮江で帰国の船に乗り込んだと言われています。私は鎮江に旅行したときに見たことがありますが、かなり巨大な歌碑でした。仲麻呂は、中国でも大きな存在として認められてきたことがわかります。


★人物
阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ、698年〜770年)
奈良時代の人物で、大和国生まれ。若くして学才が認められ、717年、16歳のときに第9次遣唐使で中国に渡ります。同期の留学生には、吉備真備や玄ムがいました。
科挙合格後に官僚として活躍したのは前述のとおり。中国名は朝(晁)衡と呼ばれていました。
憧れの先進国で重臣となったのですから、若い頃は刺激的な日々を大いに楽しんだと思われます。しかし、齢50歳を越えた頃から、仲麻呂は望郷の念を募らせ、帰国を考えます。
752年、第12次遣唐使の大使だった藤原清河らとともに日本を目指して出発しましたが、暴風雨にあい漂流します。
幸いにも安南(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着し、755年再び長安に戻ります。しかし、この年に安禄山の乱が起こり、唐は大混乱に陥ります。仲麻呂はそれでも帰国を願いましたが、行路が危険である事を理由に帰国は認められませんでした。
その後、仲麻呂は帰国を断念して、再び唐朝に勤めます。晩年はベトナム総督にあたる安南節度使となり、大きな出世をします。そして、73歳の生涯を閉じます。
 →阿倍仲麻呂を演じた俳優


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ラベル:漢文
posted by すぱあく at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 百人一首 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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