その一方でムハンマドは苛烈で残虐な性格で、機嫌が悪くなると側近ですら処刑するほどでした。実は、イブン・バットゥータも危うく処刑されそうになったこともありましたが、機転を利かせて免れました。
このようにいろいろなことがあったインドでしたが、ついに離れる時が来ました。
なんと、スルタンから中国行きの使節に任命されたのです。1342年のことです。
『大旅行記5』354頁
私がスルタンのもとに行くと、スルタンは私が以前に経験したより、さらに鄭重な態度で迎えられ、「そもそもわしが汝のもとに使いをやったのは、そなたがわしに代わって、使者としてシナ王のもとへ赴くためじゃよ。その訳は、そなたが旅と遊覧好きであることを、このわしも知っておるからじゃ」と、スルタンは申された。
そこでスルタンは私が必要とする一切のものを準備し、また私に随行する旅の同行者として、後に述べる人たちを指名されたのである。
『大旅行記6』16頁
かつてシナの王(1)は、(トゥグルク朝インドの)スルタン(ムハンマド=ビン=トゥグルク)のもとに贈り物(2)を贈って、(ヒマラヤ山脈の)カラージール山の一地区に偶像の家(寺院)を建立する許可を求めてきた。それがある場所は、サムハルと呼ばれるところで、これまでシナ人たちはそこに巡礼を行っていたが、インドのイスラム軍がそこを占領して、破壊と略奪を行った。
この贈り物がスルタンのもとに到着すると、早速、スルタンは次のような返書をシナ王に送った。「そもそも、このような御申し出については、イスラムの信仰に照らすならば、これを完全に遂行することは許されぬが、人頭税(ジズヤ)(3)を支払う者に限っては、イスラム教徒の地で寺院(カニーサ)を立てることが許されようぞ。されば、御身がもしその義務を果たす御意志がおありならば、われらはその建設をそなたに許可するであろう。常に、神の正しき導きに従わんとする者に、平安あらんことを!」
そして、スルタンは返礼として、その贈り物に対して、それを上回る品々で報いられた(2)。
★解説
当時は元朝だった中国から使者がトゥグルク朝インドにやってきて、「元朝とトゥグルク朝インドの国境に近いカラージール山の一地区に寺院を建立したい」と言ってきたとあります。それへの返答をするため、贈り物を携えた使者団を派遣することになり、イブン・バットゥータもスルタンの命により使節団に加わりました。
(1)シナの王
当時の元朝皇帝は、トゴン・テムル(順帝、在位1332年〜1370年)でした。彼は元朝最後の皇帝です。
トゴン・テムルがトゥグルク朝インドに使節団を派遣したとする中国側の資料は未だ確認されておらず、こういったこともイブン・バットゥータがはたして中国まで行ったのかどうかが怪しい理由のひとつになっています。
ついでに、トゴン・テムルおよび元朝の最期にも触れます。
元朝は内部分裂によって急速に力を失った結果、各地で反乱が相次ぎます。反乱軍のひとつが紅巾党で、その中から朱元璋が登場します。朱元璋は他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国しました。
朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都(今の北京)に迫ります。ここに至ってトゴン・テムルは中国統治に見切りをつけ、北のモンゴル高原へと敗走しました。そして、2年後に病死します。
その後、元朝政権は一応続いていくのですが、歴史的にはこれ以降は北元と呼んで別扱いにしています。
(2)贈り物一覧
文中にあるように元朝側の贈り物をはるかに超える量で応えます。対抗心か?
元朝 | トゥグルク朝 |
・100人の男女奴隷 | ・100人の男女奴隷 |
(3)人頭税(ジズヤ)
ジズヤは世界史の教科書にも出てきましたね。非イスラム教徒に対して一定程度の人権の保障の見返りとして課せられるものです。非イスラム教徒に対しイスラムの優位を誇示する効果がありました。
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