手塚治虫は存命中から“マンガの神様”と言われていましたが、それでも大御所の地位に安住することなく、常に世間の流行や若手漫画家たちの動きを研究していました。
それは、とても素晴らしいことです。しかし、その一方で新しい才能を眼にする度に愕然とし、ときには激しく嫉妬してしまうのでした。手塚治虫もまた、普通の人間だったのです。
しかし、辛く当たられた若手漫画家たちは震え上がったといいます。なにせ、相手は“神様”です。
神様から褒められれば天にも昇る気持ちになるでしょうが、けなされたらどうか?
中には「もう漫画家はあきらめよう」と思ってしまった人もいました。
このような手塚治虫の「嫉妬」のエピソードは、かなりの数に上ります。
●劇画への嫉妬
60年代から70年代にかけて、『愛と誠』(梶原一騎:原作・ながやす巧:画、1973〜1976年。今、妻夫木聡、武井咲の主演で映画やっていますね)や『野望の王国』(雁屋哲:原作、由起賢二:画、1977〜1982年)といった劇画が大ブームになります。超濃い絵柄、社会の闇をストレートに描くストーリーなど、これまでの手塚作品にはないものでした。なんと、手塚のアシスタントまでが劇画を夢中になって読んでいるのを目の当たりにし、ノイローゼに陥るほど悩みました。ある日、手塚はスタッフに対し、「梶原一騎の『巨人の星』のどこが面白いんだ、教えてくれ」と詰め寄ったといいます。また、さいとう・たかをの『ゴルゴ13』に対しても批判的でした。
・70年代の劇画ブーム
●水木しげるへの嫉妬
NHKドラマ『ゲゲゲの女房』手塚治虫は、水木の『墓場鬼太郎』を初めて見たとき衝撃を受けて自宅の階段から転げ落ちたといいます。その後、水木を擁する『ガロ』に対抗して、1966年に『COM』を創刊します。
さらに、1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』や『どろろ』といった妖怪ブームを意識した作品をスタートさせました。
手塚はある出版社パーティーの席で全く面識のなかった水木に話しかけ、「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放ったといわれています。
・水木しげると妖怪ブーム
●石ノ森章太郎への嫉妬
石ノ森はトキワ荘の住人であり、手塚の指名でアシスタントになった、いわば直弟子でした。1967年、手塚が創刊した『COM』に『ジュン』という作品を連載します。この作品は、明確なストーリーを描かず絵とコマの流れだけで叙情的な世界を表現するという実験的なものでした。これが当時の読者に熱狂的に支持されます。しかし、このときも手塚先生にいつもの悪い虫が出てしまいました。なんと、「あれはマンガではない」と公然と批判したのです。これに石ノ森はショックを受け『ジュン』の打ち切りを宣言してしまいます。
これを知った手塚は慌てて石ノ森を訪れ「なぜあんなことを言ったのか分からない」と、嫉妬からの発言であることを告白して謝罪し、『ジュン』は連載を継続しました。それにしても手塚治虫は、若手の立場からしたらかなり恐怖の存在だったと思います。
●大友克洋への嫉妬
『AKIRA』や『童夢』などの作品で世界的に有名な大友克洋の特徴は、なんといっても緻密で圧倒的なデッサン力です。丸ペンだけで、パースの狂い一つなくアシスタントも使わずに描ききってしまうその力は、異次元レベルです。ところが、例によって手塚先生は大友の凄まじい画力に嫉妬し、「あなたが描くような絵は僕にも描けるんです」と言ってしまいます。でも、その後「僕はデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友の画力をしっかり賞賛しています。
大友自身は手塚作品を読んで育ち、手塚には高い敬意を持っています。『AKIRA』も手塚に捧げた作品です。
こんな絵を見たら、誰だって降参しますわ(『AKIRA』より)→
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