
わたの原 八十島(やそしま)かけて こぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり舟
★歌意
広々とした海の(はるかかなたの)多くの島に向かって、今私は漕ぎだしたと、
(都にいる)あの人に告げてくれよ。漁夫の釣舟よ。
★解説
この歌の詞書に「隠岐の国に流されたとき、舟出の際に都にいる人に送ったもの」と書かれています。この顛末については、下記の人物欄で触れます。
わたの原は大海原の意。八十島の「八十」(やそ)は数が多いという意味で80の意味ではありません。前途に広がる果てしない海は、決して希望にあふれたものではなく、果てしない絶望と孤独を表しています。
「人」とは京都に残してきた親しい人のことで、妻と思われます。妻への慕情を誰かに伝えてほしくても、地元の漁師ぐらいにしか伝えることができず、当然伝えたところでどうにもならないほど絶望的な状況を表しています。
★人物
参議篁(小野 篁)(さんぎ たかむら、おの の たかむら、802年〜853年)
平安時代前期の官吏、漢学者、歌人。遣隋使を務めた小野妹子の末裔で、孫には小野道風がいます。
834年遣唐使に任命されますが、838年遣唐使リーダーの藤原常嗣の専横に憤慨していさかいを起こします。篁は病気と称して乗船を拒否し、遣唐使は彼を残して出発します(これが実質的に最後の遣唐使)。加えて朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位を剥奪された上隠岐へ流されます。この歌はそのときの心境を詠んだものというわけです。
しかし、840年には罪を許されて平安京に帰り、要職を歴任します。その後、847年には参議(大納言・中納言に次ぐ官職)として公卿の仲間入りを果たします。
一度流罪にあったのに、また高位に上り詰められるほど能力が高く、実際に「文才は天下無双である」という記録が残っています。
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