東洋文庫『大旅行記4』34頁〜
彼の名前は、ムハンマド・ウーズバク(ウズベク・ハンのこと)である。「ハーン」の意味は、彼らによると「スルタン」のこと。このスルタンは王国の偉大なる主権者として強大な権力を持ち、威厳高く、比類なき高い地位にあり、そして神の敵対者たち、コンスタンティノープルの住民に対する勝利者、彼らへの聖戦に精励する人物である。
中略
宿営地ビジュ・ダグでの私の滞在は、スルタンの第二皇子ジャーニ・バグの保護の下にあった。私が到着した日の翌日、午後の礼拝の後に、私はスルタンのもとに赴いた。そのとき、すでにスルタンは、シャイフたち、法官たち、法学者たち、シャリーフたち、修行者たちを集めて、盛大な宴会を用意していた。
われわれはスルタンの前で、その日の断食の禁を解いた。サイイドであり、シャリーフたちの代理官であるイブン・アブド・アルハミードと法官ハムザが参列の人々に向かって私への賛辞を述べてくれたので、人々はスルタンに私を丁重に待遇するよう勧めた。
この後、数日してから私はスルタンと一緒に午後の礼拝を行った。私がモスクから立ち去ろうとすると、スルタンは私に座るように命じた。そして、まるでドゥーキーから造ったと思われるような各種のスープ、つづいて羊と馬の肉を煮たものが運ばれてきた。その夜、私はスルタンに一皿の砂糖菓子をもたらしたが、彼はそれに指で触れ、その指を口もとに置いただけで、それ以上のことはしなかった。
●時代背景
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)はモンゴル帝国から分化した国のひとつです。
開祖はチンギス・カンの長男であるジョチになりますが、事実上、建国したのはその息子であるバトゥです。
キプチャク・ハン国建国の経緯はこうです。
ジョチの死後に家督を継いだバトゥは破竹の勢いでポーランド軍を蹴散らし、まさにヨーロッパへ乗り込もうとしていました。しかし、その矢先の1241年、モンゴル帝国皇帝であるオゴテイが急死してしまいます。
モンゴルの決まりでは、皇帝が死去したときは最高会議のクリルタイを開催して次期皇帝を決めなければなりません。バトゥはやむなく帰国することになります。
しかし、モンゴル本国では次期皇帝の座を巡って内紛が発生していました。バトゥは、モンゴルに戻っても内紛に巻き込まれるだけだと考え、1243年サライを都としたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)を建国したという訳です。
小前亮氏がバトゥを主人公にした小説『蒼き狼の血脈』を書いています。チンギス・カンの末裔を主人公にした小説は日本ではまだ珍しいので、歴史ファンには嬉しい一冊です。
その後、モンゴル帝国は4つに分裂し内紛が発生します。しかし、1305年に休戦協定が結ばれ、「パックス・モンゴリカ」という平和の時代がやってきます。イブン・バットゥータのような旅行家や商隊にとって、ユーラシア大陸を横断するのに非常に好都合な時代だったのです。
●解説
ウズベク・ハンはバトゥの玄孫であり、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)第10代当主(ジョチを初代とした場合)になります。彼の治世に同国は最盛期を迎えます。とくに、イスラームへの理解が深かったため、その後同国はイスラム化が顕著になっていきます。
ちなみに、文中にある第二皇子ジャーニ・バグ(wikipedia)は後に第12代当主になります。
なお、イブン・バットゥータがウズベク・ハンと謁見したのは首都サライではなく、ビジュ・ダグという軍営地でのことでした。
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