
東洋文庫『大旅行記4』72頁〜
われわれは、その教会堂の外側だけについて説明するとしよう。その内部については、私はそれを実際に見ていないからである。そこは、彼らによると「アヤ・ソフィア」と呼ばれ、伝えるところでは、バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる。そこはルームの最大の教会のひとつであり、その周囲を塀が取り囲み、まるでひとつの町のようである。
教会の門は13あり、そこには1マイルほどの聖域があり、ひとつの大きな門によって囲まれている。誰でもその聖域内に入れる。そこはちょうど、謁見用の広間に似ており、大理石が張られ、教会から出た水路がそこを流れ、その水路のところの両端には1ズィラーほどの高さのふたつの仕切り壁が付いてその間を水が流れている。その仕切り壁は精緻を極めた彫刻の施されたモザイク状の大理石で造られ、水路の両岸には樹木が整然と植え込まれている。
中略
教会の入口のところに教会の雑務係たちが座る屋根付き柱廊があって、彼らは教会の中の道路を清掃したり、街頭を灯し、諸門を閉めたりする。彼らはその内部に入ろうとするものに対して、彼らのもとにある巨大な十字架に平伏するまで誰一人として入ることを許さない。その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である、と彼らは主張している。その十字架は教会の門のところにあって、長さ10ズィラーゥほどの黄金製の棺箱に納められ、さらにその上にも同じように黄金の棺箱をはめ込んで、その棺箱が十字架になるように造られている。
●解説
文中では聖ソフィア大聖堂は、「バラフヤーゥの子息アーサフが建設したもので、彼は他ならぬソロモン王の母方叔母の子息であると言われる」とあります。これを歴史的事実と異なります。
歴史的事実では、聖ソフィア大聖堂は360年にコンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世によって建立されました。つまり、イブン・バットゥータの来訪よりも1000年も前のことです。
しかし後年、聖ソフィア大聖堂は戦乱で消失してしまいます。それを再建しようとしたのが、ユスティニアヌス1世です。そして、537年12月27日に改築は完成します。
このときユスティニアヌス帝は、ソロモン王の神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから
「ソロモンよ、余は汝に勝てり!」と叫んだといわれています。
そのとき、古代イスラエル王国ソロモン王の宰相として名高かった「アーサフ」の名前もこの発言時に登場します。
以上のように、かつての伝説がごっちゃになり、聖ソフィア大聖堂はアーサフが設計したというふうにイブン・バットゥータは思ったと推測されています。
さて次に注目すべきは、「その十字架は、イエスの生き霊が磔されたあの聖木の遺宝である」という記述です。
おやっ? エルサレムで処刑されたイエス・キリスト。その十字架がなぜコンスタンティノープルにあるのか?
それは、コンスタンティヌス1世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが326年にエルサレムを訪れたことが理由です。
フラウィア・ユリア・ヘレナは、この来訪時に当時はヴィーナス神殿となっていた地をゴルゴタの丘と特定し、そこで十字架3つと聖釘などの聖遺物を発見したといわれています。そして、持ち帰ったのがこの十字架というわけです。
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ラベル:キリスト教