“ジャズの帝王”と呼ばれながらも、大御所としての地位に甘んじることを好まなかったマイルス・デイビス。彼は好んで自分のバンドに才能ある若手を起用し、自分自身を高めていきました。
マイルスの下で力をつけた若手は“マイルスチルドレン”と呼ばれることもあり、後にジャズの改革者となるほど成長していったミュージシャンが多数いました。
まさに“マイルスチルドレン”はジャズの歴史そのものといえます。
ざっと見ただけでも、ジャズの巨人たちが並んでいます。
以下はほんの一部。これ以外にも“マイルスチルドレン”は相当数に上ります。
●ジョン・コルトレーン(サックス) 20世紀ジャズ最大級のカリスマ。1955〜1960年マイルスバンドに在籍。モードジャズに並々ならぬ情熱を燃やしました。
●キャノンボール・アダレイ(サックス) 1955〜1963年在籍。アルバム『Somethin' Else』(1958年)の収録曲『Autumn Leaves』(枯葉)はジャズ・スタンダードになっています。
●レッド・ガーランド(ピアノ) 1955〜1958年在籍。ブロック・コードを活かした“ガーランド節”とよばれるスタイルで人気になりました。
●ポール・チェンバース(ベース) 1955〜1963年在籍。マイルスと異なり、モダン・ジャズのオーソドックスなスタイルにこだわり続けました。
●ビル・エヴァンス(ピアノ) 1958〜1959年在籍。クラシックの影響を受けたアレンジと優美なピアノ・タッチが様々なジャズミュージシャンに影響を与えました。
●ウェイン・ショーター(サックス) 1964〜1970年在籍。ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとともにいわゆる「黄金のクインテット」としてアコースティックジャズの頂点を極めました。
●キース・ジャレット(キーボード) 1970〜1971年在籍。マイルスの『ビッチェズ・ブリュー』発表期に、エレクトリックサウンドの面で重要な役割を担いました。
●ジョン・マクラフリン(ギター) 1970〜1971年不定期で在籍。ジャズをはじめ、インド音楽、フラメンコ、クラシックなどのスタイルも広く取り込んだ演奏を行いました。
●ハービー・ハンコック(ピアノ) 1963〜1968年在籍。60年代から現在に至るまで、ジャズ、フュージョン、ファンクなどの新しい時代を切り開く話題作を発表してきました。
●チック・コリア(キーボード) 1968〜1970年在籍。ジャズを基本にボサノヴァ、ロック、クラシックなどの要素を織り交ぜた楽曲が得意。今なお最前線で活躍する第一人者。代表曲は『スペイン』。
●マーカス・ミラー(ベース) 1981〜1984年在籍。ジャズ、R&B、ファンクなどあらゆるジャンルをこなし、プロデューサー、作曲家・編曲家としても大活躍しています。
●ケイ赤城(キーボード) 1989〜1991年在籍。日本人というよりアジア人で唯一、マイルスのバンドメンバーだった人物。現在はカリフォルニア大学アーバイン校で音楽教授を務めながら、音楽活動をしています。
マイルスはアメリカにおける黒人差別に強烈な抵抗感を持ち、白人を毛嫌いしていました。しかし、音楽性の追求のためには人種は関係ないというスタンスを貫き通しました。
アレンジャーのギル・エヴァンスは白人ですが、マイルスが「もっとも近い親友」と呼び、生涯にわたって影響を受けた人物でした。
初期のバンドに在籍した白人のビル・エヴァンス(ピアノ)は、モードジャズ期のマイルスに多大な貢献をしました。
その他、リー・コニッツ(サックス)やジェリー・マリガン(ピアノ)といった白人プレイヤーもいました。
60年代末のエレクトリック期には、ジョー・ザヴィヌル(シンセサイザー)やジョン・マクラフリン(ギター)の存在抜きには考えられないほど彼らの才能を評価していました。
その後もチック・コリア(キーボード)やキース・ジャレット(キーボード)、デイヴ・リーブマン(サックス)など多くの白人メンバーが在席しました。
なかでも、ケイ赤城(ピアノ)は、唯一の日本人メンバーですから、かなり貴重です。
マイルスは語っています。
「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」
「俺はミュージシャンに人間性など求めない。唯一求めるのは、俺を刺激してくれるかどうかだけだ」
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