手塚治虫が生涯で残した作品は全604作(原稿枚数15万枚分)に及び、他の追随を許しません。しかも、これとは別にアニメも多数制作しています。
週刊連載1本を維持するだけでも大変なのに、1977年のときには『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』の6つの連載を抱えていました。まさに“マンガの神様”です。
・マンガの神様・手塚治虫(英語・中国語で紹介)
手塚作品を対象読者によって分類すると以下になります。
・少年向け 341作
・少女向け 36作
・大人向け 110作
・低年齢向け 32作
・絵本 39作
・4コマ漫画 17作
・1コマ漫画 29作
ジャンルは、児童生活、SF、ミステリー、歴史、伝説、文学、医学、宗教、音楽、哲学などかなり多岐にわたっています。『火の鳥』のように歴史・SF・哲学・ミステリーなど複数のテーマを含んでいる作品が多いため、ざっくりとジャンル別に分類することは難しいです。
ここでは、彼のマンガ家人生のターニングポイントとなった時期を見ていきます。
●トキワ荘に入居(1953年〜)
1953年、『漫画少年』からの紹介で豊島区のトキワ荘(木造2階建て)に入居します。その後、手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎(石ノ森章太郎)、赤塚不二夫らが続々と入居し、トキワ荘は漫画家の一大メッカとなります。
当時、すでに『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』などの児童マンガがヒットし、長者番付(画家)でトップになります。
手塚はマンガのアイデアを映画から受けており、トキワ荘の若手たちにも映画をたくさん観るように薦めていました。手塚自身は年に300本以上の映画を観ていました。
●大人も楽しめるマンガを制作(1955年〜1958年)
この頃の手塚は知的興味を全面に出した作品を多く制作します。1955年、大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表。大人向けのタッチを試みています。1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画も連載します。
●若手の台頭に苦しむ(1958年〜)
1958年頃より、横山光輝といった売れっ子漫画家が多数出現します。また、社会の闇をストレートに描く劇画が人気を博し、手塚は大いに焦ります。
手塚のアシスタントまでもが劇画にはまっているのを知ったときは、ノイローゼに陥りました。
●アニメーション映画に進出(1961年〜)
少年期からディズニー映画に魅せられていた手塚にとって、アニメーション映画の製作は長年の夢でした。
1961年、手塚プロダクション動画部をスタッフ6人でスタートさせます。1962年に「虫プロダクション」と改名し、日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(1963〜1966年)を制作します。
・『鉄腕アトム』(英語・中国語で紹介)
1967年には、『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞します。この虫プロダクションからは多くの人材が輩出されます。
●暗い時代背景を投影した青年漫画(1966年〜)
1966年、手塚は実験的な漫画雑誌『COM』を創刊します。これは白土三平の劇画作品『カムイ伝』や水木しげるらを看板作品とした『ガロ』に対抗したものでした。
また、相次いで創刊された青年誌で『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』『空気の底』といった青年漫画を連載します。ただ、この時期の手塚作品は、安保闘争などの社会背景もあり暗く陰惨な内容のものが多いです。
『奇子』なんて、主人公の父親と兄の嫁との間にできた子供という設定で、23年間土蔵に閉じ込められ、兄弟間で近親相姦するという内容で、読んでいて鬱になります。
●虫プロ倒産で最大の危機に(1968年〜1973年)
相次いでデビューする若手漫画家に埋もれていくのに加え、アニメ事業も不振が続きます。1973年、虫プロ商事、虫プロダクションが倒産し、手塚は1億5000万円もの借金を背負うことになり、窮地に立たされます。
このとき、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の編集長・壁村耐三(かべむら たいぞう)は、どん底にいた手塚の最後の花道として『ブラック・ジャック』の連載を用意します。
社内でも反対の声は大きかったのですが、壁村は「先生の最後を看取ってやらないか」という台詞でまわりを説得しました。
●本格的な復活(1974年〜)
まったく期待されない状況で始まった『ブラック・ジャック』でしたが、短編連作の形がウケて、後期の手塚を代表するヒット作へと成長します。当時は、果てしないバトルが続くマンガが主流で、読者はそれに飽きはじめていたことが奏功しました。
1974年、『三つ目がとおる』がスタートし、1976年には中断されていた『火の鳥』が再開。
また、文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊。さらに講談社から『手塚治虫漫画全集』が刊行され、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていきました。
●晩年(1980年〜1988年)
1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』やアドルフ・ヒトラーを題材にした『アドルフに告ぐ』など、青年漫画の新たな代表作を手がけます。
100歳まで描き続けたいと言っていた手塚でしたが、1988年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により入院し、胃癌と判明します。
病床でも仕事を続けていましたが、1989年2月9日に60歳で死去します。
『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』『火の鳥』などが未完のまま遺されました。
駆け足で手塚治虫の漫画家人生を見ましたが、何度も壁や危機があったことがわかります。
大御所として安穏とするのではなく、挑戦し続けた姿勢があったからこそ、彼は「漫画の神様」になれたのではないでしょうか。
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2012年01月11日
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