2011年07月12日

さかのぼりスペイン史4 斜陽の帝国

armada.jpg今回は、「太陽の沈まない帝国」という全盛期から、スペインがどんどん凋落していく時代のお話です。

まず初めに述べておくと、全盛期のスペイン王家は
ハプスブルク家でした。ハプスブルク家というとオーストリア王家のイメージが強いですが、有力王家との結婚政策を繰り返した結果、神聖ローマ帝国皇帝位を独占し、ついにはスペイン王家も手中に入れていたのです
超ざっくりハプスブルク家の歴史を紹介!(前編)


それが1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊がイングランドに敗北してから、スペインは徐々に力を失っていきます。このときのスペイン王はフェリペ2世。彼が死去する1598年のときには、すでに「スペインの世紀」は終わりつつありました


●ポルトガル、オランダが相次いで独立
1618年、カトリックとプロテスタントによる抗争が飛び火し、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争が勃発します。

この大混乱の中で1640年にポルトガル王政復古戦争も勃発し、隣国のポルトガルが再独立します。ポルトガルは14世紀後半に一度スペインから独立を果たしていますが、16世紀後半にアヴィシュ王家が断絶したことで、スペインとの同君連合になっていました。それでも、やはり自国の王家復活を試み、ブラガンサ家による独立を果たしました

次は1568年から独立戦争を開始していたオランダです。80年間戦い続けていましたが(八十年戦争)、ようやく1648年、三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約にオランダの独立も盛り込まれました。こうしてスペインの勢力は目に見えて衰えていったのです。
 ・オランダ人にとって特別なオレンジ色


●スペイン・ハプスブルク家断絶による大混乱
ハプスブルク家は結婚政策による領地拡大を得意技にしていましたが、デメリットもありました。近親結婚を繰り返すうちに病弱な王が相次いでしまったのです。そして1700年、虚弱なカルロス2世の死によってついに断絶します。

そこへ乗り出してきたのが、ブルボン朝フランスでした。フランス王ルイ14世妻マリー・テレーズ・ドートリッシュは、カルロス2世の姉でした。ですから「血縁のフランス王家からスペイン王を出す」と主張し、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位します。

これにフランスの強大化を恐れた他国が反発します。オーストリア(ハプスブルク家)がイギリス、オランダと大同盟を結び、フランス、スペインに宣戦布告しました。これがスペイン継承戦争(1701年〜1713年)です。

はじめは国 VS 国の戦争でしたが、そのうちスペインの内戦にまで飛び火します。スペイン王国には領内に複数の王国がありましたが、政治の中心であるカスティーリャ王国に反発するカタルーニャ君主国、アラゴン王国などが反旗を翻したのです。う〜ん、スペインは昔から内紛ばっかりですね。連合王国のもろさでもあります

1713年、長い戦いで疲弊した各国はユトレヒト条約を結び、戦争を終結させます。この条約でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント、ナポリ王国、ミラノを割譲します。イギリスにもジブラルタルとメノルカ島及び北アメリカのハドソン湾、アカディアを割譲します。その代償としてフェリペ5世のスペイン王即位を承認します。

戦後フェリペ5世は、カスティーリャ王国とアラゴン王国を統合して、スペインを真に一つの国家としました。連合王国による分裂を防ぐためです。

以降、フェリペ5世のボルボン家がスペイン王家となり、現在まで続いています。ボルボン家はフランスの制度を導入して行政と経済の近代化を行い、一旦瓦解したスペイン帝国は18世紀に復興します。中南米の植民地もまだ健在なので、貿易も急成長しました。

しかし、19世紀に入りこの成長をストップさせる人物が登場します。それがフランス革命のどさくさでトップにまで台頭したナポレオンだったのです


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posted by すぱあく at 23:55 | TrackBack(0) | スペイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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