スペイン内戦の中心人物は間違いなくフランシスコ・フランコ将軍ですが、当初から表舞台にいたわけではありません。反乱を起こしたのは、サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍といった面々で、フランコはそれに加わった将軍のひとりに過ぎませんでした。
ところが、サンフルホ将軍が飛行機事故で死亡し、その他の反乱軍が敗北を重ねるなか、フランコはトレドを陥落させるなど戦功がめざましいため、1936年10月1日に反乱軍の総司令官兼元首に選出されます。
このスペイン内戦は単純にいえば、反乱軍 VS 共和国軍の戦いですが、それぞれの構成勢力・支持層は、諸派入り乱れており、整理して見ていかないとさっぱり理解できません。
まず、共和国政府ですが、当時政権を担当していた「人民戦線」という組織は、前の選挙で右翼政権に勝つために集まった連立集団でした。メンバーは共和左派、社会党、共産党など反右翼勢力のすべて。要するに寄せ集め集団で、内戦の終盤には激しい仲間割れを起こします。
では、それぞれの陣営の支持層を見て行きます。
反/政 | 反乱軍(フランコ側) | 共和国軍(人民戦線) |
支持層 | 教会、地主、資本家、外交官、秘密警察 | 共和制支持者、左翼政党、労働者、バスク独立運動勢力 |
支持層(軍部) | 陸軍15万人(下士官が多い)、海軍の機関将校 | 陸軍16万人(高級士官が多い)、空軍のほとんど、海軍の水兵など |
軍部の中でも共和国軍についた者も相当数に上っており、単純な「軍部の反乱」ではなかったことがわかります。
実は、フランコ将軍の親族も兄は反乱軍に、弟と従兄弟は共和国軍にわかれて戦っています。
一体どうすれば、こんなグチャグチャになるのでしょうか。
しかしよく考えてみれば、日本の民主党でさえ、小沢派やら菅派やらでグチャグチャしています。
スペインのように、民族、宗教、イデオロギー、貧富の差、地方や植民地の独立運動などが加わったらどうなるか、スペイン内戦は人間社会の分裂劇の見本だったのかもしれません。
さて、この内戦に周辺各国はそれぞれのスタンスで望みます。
反乱軍を支持 | 共和国軍を支持 | 中立 |
ドイツ、イタリア、ポルトガル | ソ連、メキシコ、国際旅団 | イギリス、フランス |
・ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦への干渉が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選びました。フランスもこれに同調します。
・ソ連は、共産党の勢力を伸ばすために共和国軍を支援します。メキシコも支援に動きますが、派兵はごくわずかでした。
・ドイツのヒトラーはフランコ将軍への支援を決め、航空部隊を送り込みます。ナチス・ドイツにとっては新兵器や新戦術を試す格好の実験場となりました。
・国際旅団というのは、国際共産党機関「コミンテルン」より派遣された義勇兵です。55ヶ国4万人ほどの青年と2万人に及ぶ医療関係者からなります。その大多数は労働者であり、85%が共産党員でした。
アメリカの小説家アーネスト・ヘミングウェイもこの旅団に参加し、その経験によってスペイン内戦を題材にした『誰がために鐘は鳴る』(1940年)が生まれます。1943年にゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの主演で映画化もされました。
さて、スペイン内戦の戦局について述べます。
反乱が起きて1〜2ヶ月でスペインの半分が反乱軍の手に落ちます。しかし、1936年秋の反乱軍による首都マドリードへの攻撃は、共和国軍の反撃で挫折します。そこで、フランコは共和国側が支配している地域を少しずつ侵食する作戦をとります。
1937年4月19日、フランコはミニ政党ファランヘ党を母胎に他党を統合し新ファランヘ党を組織、その党首に就任します。これがその後のフランコ独裁の支持基盤になります。
1937年4月26日 バスク地方の都市ゲルニカが、ドイツとイタリアによって爆撃されます。これは世界で初めての市街地に対する大規模な無差別攻撃となりました。わずかに24機の爆撃機で、市街の70%近くが破壊されたといわれています。ピカソの絵があまりにも有名です。
共和国軍の旗色は日に日に悪くなっていきましたが、あろうことか内部で仲間割れを起こします。
人民戦線を構成していた共産党が、ライバルを排除し主要ポストの独占に走るという愚挙に出ます。1937年5月には、バルセロナで反共産党系のマルクス主義者労働党と、共産党が市街戦を繰り広げます。共産党はさらに他の組織を次々に粛清し、共産党内閣を成立させます。
こんな感じで内部闘争していたら、そりゃもう勝てませんて。1939年、最後までもちこたえていた臨時首都のバルセロナが陥落。そして、ついに3月27日に首都のマドリードが陥落し、名実共に共和国政府は消滅しました。
4月1日、フランコによって内戦終結宣言が出されます。
内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えます。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑しました。
また、自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺します。この火種は今日まで続いています。
スペイン内戦は終結しましたが、世界の戦争への勢いはストップしません。
内戦終結の5ヶ月後、1939年9月1日、150万人のドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
ヒトラーは、スペイン内戦ではフランコを強力に支援しましたので「もちろん、今度は俺らに協力するよなぁ」と言って来ます。
しかし、フランコは、日本の政治家のようなあいまいな態度を繰り返し中立を維持します。
内戦からの復興が目的だったと思いますが、結果的にナチスの毒牙を免れます。
以降はフランコの独裁体制ではありますが、スペインはひとつとしてまとまることができました。何百年と内紛でバラバラだったスペインをまとめたフランコの手腕は、評価されています。私たちが一般的に持っている「独裁者」のイメージとはかなり異なる変わった独裁者だったと言えます。
ところで、このスペイン内戦にはヘミングウェイのような作家に加え、戦場ジャーナリストやカメラマンも加わり、戦争で行われた残虐な行為が世界中に発信されていきました。なかでも、写真家ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は有名です。
当時のメディアの論調はフランコ率いるファシストが悪。防戦する共和国軍が正義という図式が一般的で、内戦が終結した後もそのような評価が主流でした。
しかし、時が経過してスペイン内戦を再評価したとき、単純な善悪では図れないことがわかります。共和国軍の醜い内部闘争はどう考えても国民不在の愚挙でした。
今、私たちもそれに近い光景を日本の国会内部で目の当たりにしています。
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