K-POPはダンスミュージックやラップが多く、とにかくノリノリで中毒性が高いのが特徴です。
戦後60年以上経った今でも、日本と韓国の間にはさまざまな問題(領土問題、歴史問題、在日問題、嫌韓など)があります。しかし、韓流やK-POPといった文化交流は、これらを超越して交流できる可能性があります。そこで今回は、韓国音楽の歴史を紐解くことで、今まで見えなかった側面を発見していきたいと思います。
日本における韓国音楽を考えるうえで重要なのが、韓国演歌(トロット)の存在です。
つまりキム・ヨンジャ、チョー・ヨンピル、ケイ・ウンスクといった人たちです。
トロットは本当に日本の演歌とメロディが似ています。歌詞の内容も男女間や家族間の情愛をテーマにしたものが多く、これも演歌に近い部分です。
大正期〜終戦まで
日本とトロットとの関係はかなり古く、大正時代にまでさかのぼります。
1910(明治43)年、大日本帝国が大韓帝国を併合して以降、日韓内での人的往来が活発化しましたが、その中には芸能関係者もいました。大正時代に日本のレコード会社は、韓国市場に向けて朝鮮語によるレコードを発売を開始します。
そして、昭和に入ってから本格的に韓国市場の開拓に乗り出します。1928年にビクター、1929年にコロムビア、1931年にポリドール・タイヘイレコードが進出し、トロットのレコードを発売していきました。
1932年、蔡奎Y(チェ・ギュヨプ)が日本でヒットした『酒は涙か溜息か』(作曲:古賀政男)を韓国語でカバーしヒットします。ちなみに、古賀政男(当時は日本コロムビア所属)は明治大学を卒業していますが、幼少期は韓国の京城で成長しています。
また、人気歌手であった日本のディック・ミネも三又悦(サムヨル)名義で韓国語のジャズナンバーを発表しています。
その後、韓国内ではさまざまなトロットのヒット曲が出ますが、張世貞(チャン・セジョン)の『連絡船の歌』のように、日本統治への反発を込めた歌などもヒットしました。
しかし、太平洋戦争の戦局が悪化する頃は、日本当局の介入が激しくなりました。
終戦後
1945年日本の敗戦により朝鮮半島は開放され、1948年に南側に大韓民国が樹立されます。初代大統領の李承晩(イ・スンマン)は『酒は涙か溜息か』のような日本ルーツの楽曲も含めて、日本文化を発禁にします。その後、しばらく日韓の文化交流は断絶します。



番外 桂銀淑(ケイ・ウンスク)

しかし、その後がスゴイ。2億5500万円という巨額の借金を巡って所属プロと衝突し、契約を打ち切られます。事務所からは返済を求める裁判を起こされ、これが原因でテレビの露出はゼロになります。さらに夫とは離婚し、更年期障害やうつ病に苦しみます。こうした心労が原因になったのでしょうか、覚せい剤に手をだし2007年に現行犯逮捕されます。この罪により、国外退去処分となり、現在はソウルにいます。KARAの脱退騒動が可愛く見えるほどスキャンダラスな人生です。
さて、次回からK-POPがいかにして日本に入ってきたかを見ていきます。それでは、また。
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