2011年05月05日

日立の歴史5 日製の市政への影響力

日立市では行政名との混同を避けるため、日立製作所のことを「日製」(にっせい)と呼びます。
日立市は、歴史的に日鉱(日立鉱山)と日製(日立製作所)の企業城下町として栄えてきました。現在でも日立製作所が日立市に与える影響力は相当なものと思われます。その辺りにフォーカスしてこのシリーズを締めくくりたいと思います。

kouzan.jpg1905(明治38)年、久原房之助が日立鉱山を開いた頃の日立村は人口わずか1200人程度の寒村でした。ところが日立鉱山が発展するにつれ、多くの労働者とその家族が流入してきます。また日立鉱山から独立した日立製作所も第一次世界大戦時期の好景気を背景に規模を拡大させ、日立は鉱工業労働者が集まる町として発展します。1920(大正9)年には人口は約20倍の約2万5000人にまで拡大しました。
1924(大正13)年に町制が施行され日立町となります。商店、酒屋、料理店が集まり繁華街も大いに栄えます。
1939(昭和14)年には助川町と合併して日立市が誕生します。

さて、日立鉱山から独立した日立製作所は規模を拡大するにつれて地域での影響力が高まり、やがて両者はその影響力を競い合うようになります。1920年代から1930年代にかけてはまだ日立鉱山の影響力が日立製作所を上回っていました。しかし、1940年代に入ると日立製作所の影響力が日立鉱山を上回るようになります。

このパワーバランスは市政にも大きく反映されます。1939年の日立市成立時の初代市長は、日立鉱山の関係者が選出されました。しかし、約1年後に辞任したときに、後任市長の選出を巡り日立鉱山と日立製作所とで激しい対立が起こります。このときは茨城県が仲裁に入り、県選出の市長が1年後にようやく決まります。
その後、1945(昭和20)年には日立製作所の関係者が市長に選ばれ、50年代には日立製作所が完全に優位になります。60年代には日立鉱山で大規模な人員削減が行われ、日立鉱山の影響力はさらに低下していきました。

そして現在・・・
戦後の一時期は日立市の人口は県庁所在地の水戸市を上回っていたこともありました。しかし、近年は日立グループの再編などによって人口が減少し20万人を割っています。日製の市政への影響力も昔ほどではないでしょう。しかし、それでも依然として影響力はあると思います。

2011年4月24日に実施された日立市議会議員選挙の結果(茨城新聞より)を見てみますと・・・
・白石敦(日立情報制御ソリューションズ勤務)
・高安博明(日立製作所日立工場勤務)
・伊藤健也(日立アプライアンス勤務)
・村田悦雄(日立化成工業山崎事業所勤務)
・塚田明人(日立エンジニアリング・アンド・サービス勤務)
・大庭弘美(日立電線日高工場勤務)
・青木俊一(日立製作所日立事業所勤務)
定数28のうち7人(25%)が日製の関係者です。得票数もほとんどが上位におり組織力の高さがうかがえます。

ohata.jpegもし日立の関係者が県会議員になれば茨城県政に影響を与えることができるでしょうし、国会議員になれば国政に影響を与えることができるでしょう。
事実、現職の国土交通大臣である大畠章宏氏は、日立製作所(日立労働組合執行役員)→→茨城県議会議員→→衆議院議員→→経済産業大臣→→国土交通大臣という経歴を歩んでいます。大臣まで輩出するとは、日立製作所は本当にスゴイ会社です。

現在の日立グループは大企業病に苦しんでおり、日立市もかつての栄華が過ぎ去って久しいですが、いずれも日本の産業を支えてきた存在として、今後もがんばってほしいものです。
以上をもって、「日立の歴史」シリーズをしめくくります。それでは、また。


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posted by すぱあく at 18:45| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
3回に渡る日立の歴史、
興味深く、読ませて頂きました。
私にとって、大変参考になる記事だと思います。

この周辺には、
まだまだ歴史的に面白い処が多くあります。
これからの記事を楽しみにしています。

Posted by 雅勒 at 2011年05月05日 19:07
>>>雅勒さん
コメントありがとうございます。少しでも参考になれば幸いです。

最近の日立市は元気がない印象ですが、歴史も底力もあるわけですからイロイロできるのではないでしょうか。

新しい発見があったら、また触れてみたいと思います。
Posted by すぱあく@管理人 at 2011年05月06日 17:08

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