日立製作所は、久原鉱業所の鉱山機械修理工場を前身として1908年に設立され、1920年に株式会社日立製作所として独立します。
久原鉱業所というのは、日立鉱山を採掘・運営するために久原房之助(くはら・ふさのすけ)によって設立された会社です。房之助は山口県萩市の出身。つまり長州人であり、実際に井上馨などの長州閥にパイプがありました。
房之助は、東京の大学を卒業後、叔父・藤田伝三郎が経営する土建屋「藤田組」(現・DOWAホールディングス)に入社します。この会社で、1891(明治24)年に小坂銅山(秋田県小坂町)に赴任し、銅山経営を体験します。このとき新技術を導入することで業績拡大に貢献します。
その後、独立を目指した房之助は1903(明治36)年に藤田組を退社。そして、1905(明治38)年に茨城県日立村の赤沢銅山を買収し、日立鉱山と改称します。同時に久原鉱業所を設立します。日立鉱山には銅が豊富に埋蔵されており、ちょうど日露戦争後の経済成長期ということもあって、目覚しい発展を遂げました。
この日立鉱山から日立製作所が誕生し、寒村だった日立は一大産業都市へと発展するわけですが、そのあたりは次回で述べます。今回は久原房之助のその後について述べます。
1912(大正元)年、久原鉱業所は久原鉱業株式会社となり、近代的経営組織となります。そして、房之助は鉱山経営を足がかりにして企業を拡大し、造船業・肥料生産・商社・生命保険を傘下とする久原財閥を形成します。しかし、急激に事業を拡大したために無理が災し、大正末期には経営危機に陥ります。また、自身も腸チフスにかかり生死をさまよい、回復したときには経営への意欲をすっかり失ってしまいました。
1928(昭和3)年、久原鉱業の経営を義兄(最初の妻の兄)の鮎川義介(あゆかわ・よしすけ)にゆだね実業界から引退し、今度は政界に出ることを決意します。転んでもただでは起きない典型的なタイプです。
同年、衆議院議員に初当選した房之助は田中義一首相によっていきなり逓信大臣に抜擢されます。今じゃ考えられない人事ですね。
その後、立憲政友会の幹事長を歴任し力をつけていきますが、二・二六事件(1936年)に連座したことにより政界での影響力を一旦は失います。
しかし、その後は鳩山一郎に接近して影響力を回復。大政翼賛会総務なども務め「政界の黒幕」と呼ばれます。
戦後は戦犯容疑を受けますが不起訴となり、再び衆議院議員に当選して日中・日ソ友好に努めました。そして、1965(昭和40)年、95歳で死去します。近代日本の黎明期に生きた傑物の人生でした。
最後に、鮎川義介にわたった久原鉱業のその後についても述べておきます。これも日本の産業史のなかでは、とても重要なことです。
久原鉱業は、1928年に日本産業と改称します。そして、さまざまな業種の子会社をつくり日産コンツェルンと呼ばれる一大グループを築きます。
鉱山部門を担当する子会社として日本鉱業を設立し、日立鉱山を主力鉱山として運営していきます。
また、日産コンツェルンからは日産自動車も生まれました。
日立製作所は1920年に独立していましたが、日産コンツェルンの影響を受けて発展しました。
ちなみに日本鉱業は、株式会社日鉱共石(1992年、共同石油と合併)→→→株式会社ジャパンエナジー(1993年、社名変更)→→→新日鉱ホールディングス株式会社(2002年、持株会社として設立)→→→JXホールディングス株式会社(2010年、新日本石油と経営統合し持株会社として設立)と合併を繰り返して現在まで存続しています。
日産もENEOSも日立と間接的につながっていたわけですね。こういうところを見ても、日立は“日本の産業のふるさと”といえるかもしれません。
次回は、真打ちといえる存在の日立製作所を中心に見ていきます。
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2011年04月30日
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