実家が埼玉から茨城県日立市に移ってから数年経ちました。
これまで日立のことを何も知りませんでしたが、これを機に「日立史」を紐解いてみようと思います。
地名における「ひたち」を表すとき、「日立」のほかに「常陸」があります。市名でも常陸大宮市と常陸太田市があります。どのような違いがあるのでしょうか。
「常陸」の名前が歴史に登場するのは「常陸国風土記」からです。これは奈良時代初期、元明天皇の詔で713年に編纂が開始され、721年に成立したものです。
「常陸国風土記」によると、645(大化元)年からはじまった「大化の改新」により中央集権化が進められ、「常陸国」(ひたちのくに)が646年(大化2)年に設置されます。当時の「常陸国」は現在の茨城県一帯を指しており、現在の石岡市に国府と国分寺が設置されました。
平安時代後期から常陸源氏の佐竹氏が登場し戦国時代にも続いていきますが、この佐竹氏はとにかく内紛が多く常陸国の統一にもてこずっていました。そのためか戦国大名としてはかなりマイナーですね。しかも関ヶ原の戦い後は、徳川家康より秋田に国替えを命ぜられました。
江戸時代、現在の日立市一帯は水戸藩の領土に入ります。
水戸藩といえば、水戸黄門として有名な徳川光圀が藩主(第2代)でした。1695年、その光圀が神峰神社に参拝した時、海上から朝日の昇る様子を
「朝日の立ち上る様は領内随一」と述べたそうです。以来、一帯は「常陸」に加えて日立とも呼ばれるようになりました。「日立」の名付け親が黄門様だったとは驚きです。
現在も神峰神社がある「かみね公園」からは日立市を一望でき、黄門様が見たのと同じ景色を眺めることができます。動物園や遊園地もあり、観光スポットになっています。
さて、日立市といえば、やはり「産業の町」。真っ先に日立製作所が思い浮かびますが、そのルーツとなった企業の存在も重要です。次回はその当たりに迫っていきます。
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2011年04月27日
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