グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)が2011年3月31日閉館し、55年の歴史に幕を下ろしました。ニュースではバブル期に絶頂だった「新館」をよく映しますが、歴史ファンの私にとってはそちらは割りとどうでもよく、「旧館」の行方が気になっていました。どうやら文化財として保存されるようです。よかった。
この旧館は、1930年に旧李王である李垠(り ぎん/イ ウン)の邸宅として造営された木造2階建の洋館です。デザインはチューダー様式を基調としており、宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉たちが設計し、清水組(現・清水建設)が施工しました。
李垠とはどんな人物で、当時はどんな時代だったかを見ていきます。
以下、ポイントを整理しますと
●時代背景・・・韓国が大日本帝国に併合された時代
●妻は日本人・・・日本の皇族との政略結婚が進められたため
●李垠夫婦は06年にドラマ化された・・・主演は岡田准一(V6)と菅野美穂
●時代背景
4月3日からNHKで韓流時代劇『イ・サン』がスタートしました。主人公の李祘(イ・サン)は後に李氏朝鮮の22代国王・正祖(チョンジョ)になります。
彼の後、23代・純祖(スンジョ)、24代・憲宗(ホンジョン)、25代・哲宗(チョルジョン)、26代・高宗(コジョン)と続きます。
この高宗のとき、大日本帝国による朝鮮半島での策謀はエスカレートします。
1897年、国号を大韓帝国と改称し、高宗は初代皇帝に即位します。
1907年、高宗が日本の策謀と朝鮮の窮状を国際社会に訴えるため派遣した密使が発覚(ハーグ密使事件)。退位を余儀なくされ、息子の純宗(スンジョン)に譲位します。
1910年8月、韓国併合。これ以後、李王家は日本の王公族となり、皇族に準じる位になります。
●妻は日本人
1897(明治30)年、国号が大韓帝国と改称された年、李垠は高宗の息子として生まれます。純宗とは異母兄弟にあたります。
1907(明治40)年、純宗が即位した年、11歳のときに日本に留学します。日本で日本式教育を受けさせるわけですから、つまりは「人質」といえます。
学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で学びます。
陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、最終的には陸軍中将になります。
1910(明治43)年、韓国併合。李王家は日本の王公族となり、李垠の身分は王世子(皇太子)となります。
1920(大正9)年、梨本宮方子(なしもとのみや まさこ)と結婚。梨本宮方子は昭和天皇の后候補でもあった人で、日韓の関係を保つための政略結婚でした。以後、彼女は李方子(り まさこ/イ バンジャ〉となります。
1922(大正11)年、長男が誕生するも、数ヶ月後、訪問先の朝鮮で不審死。
1931(昭和6)年、次男の李玖が誕生。
1945(昭和20)年、日本敗戦。李王家は王公族の身分を奪われ、一在日韓国人になってしまいます。当然、生活も困窮します。
生計を建てるため、邸宅をリースします。この頃は、参議院議長公邸として利用されていました。さらに生活が困窮したため、1952(昭和27)年に邸宅を売却します。買収したのは、超ウルトラ肉食系 堤康次郎が率いる国土計画興業(後のコクド)。つまり西武鉄道グループでした。そして、1955(昭和30)年に客室35室を整備して赤坂プリンスホテルが開業するのです。赤プリ開業の影に没落貴族あり、なんか泣けてきませんか。
李垠・方子夫妻は韓国への帰国を試みますが、まだ日本と大韓民国の間に国交が樹立されていなかったため、その願いは長く叶いませんでした。一説には、王政復古を恐れた李承晩(イ・スンマン)初代大統領の妨害もあったとか。
さらに1960(昭和35)年、李垠が脳梗塞で倒れます。李垠は63歳、方子は59歳、もう高齢者で苦労続きですから無理もありません。
しかし、事態はようやく好転します。
1963(昭和38)年、日韓国交正常化交渉が始まり、李承晩が退陣します。後任の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は李垠夫妻の帰国を実現させます。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮(チャンドックン、ソウルにある李氏朝鮮の宮殿。1997年に世界遺産に登録。写真の建物)に住むことができるようになりました。きっと李垠はホッとしたと思います。1970(昭和45)年、安らかに眠ります(享年72歳)。
李垠の死後、方子は韓国で精力的に活動します。
・当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育を普及
・知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立
・趣味でもあった七宝焼の特技を生かし「ソウル七宝研究所」を設立
・李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中で「王朝衣装ショー」を開催
・終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡ったりした日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長に就任
・福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・皇后を始めとする皇族とも面会
こうした方子の尽力は韓国国内でも認められ、1981(昭和56)年に韓国政府から「牡丹勲章」が授与されます。
そして、1989(平成元)年に逝去(享年87歳)。韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されます。
●李垠夫婦は06年にドラマ化された
いかがでしたでしょうか。皇族・王族に生まれながら時代に翻弄された人生でしたが、李垠・方子夫妻は捻じ曲がることなく、まっすぐに生きた印象があります。彼らのように李王家と日本の皇族が結婚した例はほかにもありましたが、すべて離婚したといいます。ですから、李垠と方子は信頼しあうことができた夫婦だったのではないでしょうか。
彼らの物語は、06年に『虹を架ける王妃』としてドラマ化されました。主演は岡田准一(V6)と菅野美穂です。二人とも演技派ですから、ドラマの出来もいいものでした。オススメですよ。
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