ところが、ローマ帝国は395年に東西に分割された後、476年に西ローマ帝国が滅亡します。これによりローマを中心としたキリスト教社会(後のカトリック)は、後ろ盾を失います。

537年ユスティニアヌス帝によって再建された
アヤソフィア(聖ソフィア大聖堂)は、「コンスタンティノポリス総主教庁」として東側キリスト教(後の正教会)の総本山となり、また東ローマ帝国諸皇帝の霊廟として用いられました。
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このようにキリスト教は、東西で明暗がハッキリと分かれてしまいます。そのうちに両教会ともしだいに交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈、礼拝方式、教会組織のあり方、司祭の妻帯可否などで差異が拡大していきます。
●西方教会も黙っちゃいなかった
さて、西のローマ側もだまって指をくわえていたわけではありません。なんとか世俗社会の後ろ盾を得ようと画策します。そこで800年に、ローマ教皇レオ3世はカロリング朝フランク王国のカール大帝に戴冠し、「ローマ皇帝」の称号を与えます。これは古代ローマ皇帝の継承者を意味し、最高の栄誉でした。もちろんタダではありません。見返りに、教皇(後のカトリック)を保護しなさいよ、ということです。
当然のことながら、東ローマ帝国側はカール大帝が「ローマ皇帝」であることを認めるわけありません。「皇帝称号の僭称にすぎない」と見なしました。しかし、この戴冠によって西ヨーロッパが宗教的にまとまるキッカケとなり、ようやく東側(東ローマ帝国&後の正教会)に対抗する足がかりを得たのです。
●神聖ローマ帝国の成立
ローマ教皇が戴冠して世俗の最高権力者である「皇帝」を任命し、「皇帝」はローマ教皇を保護する。西ローマ帝国滅亡以降、ぐらついていたヨーロッパ社会はこの相互補完システムでようやく安定し始めます。
そして962年、東フランク王国のオットー1世による戴冠で誕生したのが神聖ローマ帝国でした。相互補完システムの完成状態といえます。
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この頃には、すでに西(カトリック)と東(正教会)のキリスト教は似て非なるものになっていました。そして、1054年に分裂は決定的なものになるのです。その話は次回で。
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