
職場が近いので何百回と前を通ってきましたが、あまりに近い存在であらためて行くことがありませんでした。東京都民が東京タワーにほとんど行かないのと同じです。
しかし、このニコライ堂には、機会があればぜひ行った方がいいです。ちょうど大地震で大変な時期ですから、荘厳な雰囲気に包まれ、心が洗われると思います。
本日はこのニコライ堂の歴史を振り返り、そしてシリーズで「正教会」の歴史をたどってみたいと思います。
正式名称は「東京復活大聖堂」。通称の「ニコライ堂」は、日本に正教会をもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライからです。

1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、アメリカ渡航を計画していた新島襄(後に同志社大学を設立)に出会い、日本語を教わります。以後、精力的に正教の布教に努めます。


彼は酒を飲んだ帰り道、拾った金時計を酔った勢いで時計屋に売ってしまいました。ところが、その時計は盗品だったため、自分自身が疑われ、切腹沙汰にまで発展します。そこを龍馬や武市半平太が逃がすわけです。その後、彼は東北を転々し、ついに函館まで逃げのびます。
沢辺は、ニコライの弟子として、日本ではじめての正教徒になり、後にはじめての日本人司祭になります。
明治になり、聖ニコライは東京で布教活動を展開します。そして、大聖堂の建設を企画します。元の設計は、ロシア工科大学教授で建築家のミハイル・シチュールポフ。それを受けてジョサイア・コンドルが設計をします。

明治の名建築の一つに数えられ、夏目漱石『それから』(1909年)の一節にも登場します。また、与謝野晶子、与謝野鉄幹、木下杢太郎といった詩人にもニコライ堂が詠まれました。
聖ニコライは1869年、1879年にロシアに帰国していますが、その後は日本に戻り、日露戦争(1904〜1905年)のときも日本を離れませんでした。そして、1912年、76歳のときにこの大聖堂で没します。
1923年、関東大震災が発生しニコライ堂は倒壊しますが、1927年から1929年にかけて建築家・岡田信一郎の設計により修復されます。東京大空襲のときは破壊を免れ、今もその威容を伝えています。
このニコライ堂、誰でも中に入ることができます。月曜日・祭日を除く午後1時〜3時半(10月〜3月)、午後1時〜4時(4月〜9月)。聖堂内には、美しいイコンがあり、荘厳な雰囲気に包まれていました。撮影はできませんのでご注意ください。
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