
ペリー来航(1853年)以来、幕府はアメリカから開港を迫られてきました。そして、1859(安政6)年、ついに開国することになり、当時は単なる漁村だった横浜に大慌てで港を建設し、外国人居留地をつくったのです。
同年、この外国人居留地に外資系第一号として進出したのが、
ジャーディン・マセソン商会です。同社の横浜支店は、地元住民から英一番館と呼ばれていました。
・長州ファイブをロンドンにいざなったジャーディン・マセソン商会
その後も外資系企業は続々と日本にやってきました。こうした欧米人に従ってやっきたのが、中国人の「買弁」(ばいべん)たちです。「買弁」というのは、清朝末期に欧米人を支援した中国人商人のことで、計算や語学に長けた人材が重宝がられました。
欧米人たちが、中国人買弁を日本に連れてきた理由は
・日本人と漢字で筆談できるから
・欧米人と日本人では、商習慣がかなり違ったため、間に中国人を入れた方がまだマシだったから、のようです。
その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、さらに多くの中国人商人たちが来日し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などが建てられていきました。これが横浜中華街の原型です。ただ、この頃は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などが大半で、中華料理店は多くありませんでした。
1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国しますが、戦後にまた戻ってきます。ところが、1899(明治32)年には居留地が廃止されてしまいます。加えて、日本人の職を守るため、中国人は職業制限を受けます。
受難が続く中国人でしたが、たくましいのも彼らの特徴。三把刀(料理・洋裁・理髪)という刃物を使う職業に特化し、この道のエキスパートになっていきます。中華街に中華料理屋が増えていったのはこれが理由です。

しかし、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災でこの中国人街も大打撃を受け、1930年代にようやく復興します。その後、1937(昭和12)年7月7日に日中戦争が勃発し、華僑の多くは帰国します。
戦後になると、近くにGHQ本部が置かれたこともあり、米軍相手の商売で盛り返します。戦勝国である中国からの物資に恵まれ、飲食店が100軒近くになりました。香港との往来も復活して横浜港は賑わい、南京町も発展しました。
1955(昭和30)年、中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、門の上に「中華街」と書かれたことで、この街は次第に「中華街」と呼ばれるようになります。
1972(昭和47)年、日中国交正常化が実現。パンダブームなどとともに中華料理目当ての日本人観光客が増えていきます。同年、横浜中華街発展会協同組合が発足します。
2004(平成16)年、横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として「元町・中華街駅」が設置されました。日本の中華街が他の国々のチャイナタウンと大きく違う点は、来街者の95%が中国人でないこと。他はちょうどその逆なのです。それだけ、魅力的な観光地として発展してきたといえます。
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萬珍楼社長である華人・林兼正氏の話を元に執筆したもの