2011年02月10日

浄土真宗6 「大谷探検隊」と財政危機

東西分裂後の近現代における本願寺、浄土真宗の動きを見ていきます。

西本願寺は、新選組の最盛期に屯所として利用されました。大河ドラマ『新選組 !』でもこのシーンはありました。結成初期の新選組は、八木源之丞(演:伊藤四郎)の自宅を屯所にしていましたが、隊士が200名以上の大所帯になったとき、その人数を収容できる場所として西本願寺に目を付けたのです。
この頃の京都は、脱藩浪士と新選組との間で死闘を繰り広げて非情に物騒だったため、寺院はほとんど活動休止状態だったようです。1865年に新選組は西本願寺に屯所を移しました。

さて、明治から大正にかけて、西本願寺最大の出来事が「大谷探検隊」です。
これは、西本願寺第22世法主の大谷光瑞(法名は鏡如)が、1902(明治35)年から1914(大正3)年の間に、3回にわたって中央アジア、シルクロードに派遣した学術探検隊です。

大谷光瑞の生涯 (角川文庫) [文庫] / 津本 陽 (著); 角川書店 (刊)大谷光瑞の性格については、津本陽の小説『大谷光瑞の生涯』が参考になります。父の死により、28歳という若さで西本願寺の法主となった光瑞は、イギリス留学を経験し国際的な視野を持っていました。

当時、中央アジアの探検といえば、スヴェン・ヘディン(スウェーデン)のような西洋人しかいませんでした。光瑞からすれば同じアジアで、仏教国の日本が探検できないことは悔しかったのではないでしょうか。そこで光瑞は自らシルクロードを探検することを思いつきます。彼ならそれを実行できる財力と地位がありました。なにせ当時の西本願寺の予算は「京都市の予算とほぼ同額で、本願寺御殿の生活は、百万石の大大名の格式であった」といわれていた程です。

この探検の結果、貴重な古文化財が日本に持ち帰られ、一部は大谷記念館(大分県の西本願寺別府別院内)に所蔵されています。

しかし、探検には莫大な費用がかかり、これが西本願寺の財政を危機に陥れます。いかに西本願寺の予算が莫大であっても、これらは檀家や信者から集められたお金です。シュリーマンが私財を投じてトロイ遺跡を発掘したこととは訳が違うのです。結果的に光瑞はこの責任を取らされ、法主を引退させられます。

そして、以後はこうした危機を招かぬよう、法主大谷家は象徴的な存在となり、実務は合議制機関「総局」が執行することになりました。また、立法組織の「宗会」、教義に関する門主の諮問機関「勧学寮」、法規上の訴えや財産管理などを行う「監正局」も設置し、さながら国家のように権力分立の形式を採用することになりました。浄土真宗シリーズ第一回でも紹介したように、この形式は現在も続いています。なるほど、大谷光瑞の行動がキッカケになって始まったわけなんですね。


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posted by すぱあく at 09:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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